中央エリート馬との対決と下された評価

 明けて昭和48年(1973)3月、中央競馬に移籍したハイセイコーがいよいよ中山競馬場に登場。

「大井から来た怪物」をひと目見ようと、12万人を超える大勢の競馬ファンが押し寄せました。私はテレビの実況中継で見ていましたが、競馬場の異様な興奮はお茶の間にいる私にも伝わってくるほどでした。

 レースのほうは、予想にたがわずハイセイコーが勝利を収めましたが、2着馬との差は1&3/4馬身だったこともあり、勝利よりどれだけ差をつけて勝つかということを期待したファンが大半だったせいか、レース後は少々拍子抜けした雰囲気がブラウン管から伝わってきたものです。

 公営の馬と中央の馬との実力差は歴然としたものがあることは知ってはいても、田舎から突如としてやって来た一匹狼(馬だけど)が都のエリートたちをひれ伏させるというドラマを見てみたかった人々の気持ちが反映されていたのでしょう。

 その後、ハイセイコーは2年間現役生活を続けますが、大きなレースに勝利したのはクラシックレース三冠のひとつ「皐月賞」のみでした。

 後年、ハイセイコーに対しさまざまな評価が下されます。実は早熟血統だったのではないか、大井の馬場はハイセイコーが得意なダート(砂)だったが、中央の芝の馬場は不得手だったのではないか。距離適性も2000メートルくらいまでなら強いが、タイプとしてはマイラー(距離1600)だったのではないか等々。

競馬アイドル第1号、さらばハイセイコー

道の駅サラブレッドロード新冠のハイセイコー像  写真/フォトライブラリー

 現在と違って、当時はまだレースの距離体系も整っていなければ血統を重視する風潮も強くなく、ハイセイコーと同じ父(チャイナロック)を持つ5歳年長の名馬タケシバオーなどは、1200メートルから3200メートルまでのレースに出走、勝利していた時代でした。

 現在は、レース体系も整備され、競走馬の走り方や血統面から短距離系・中距離系・長距離系等に類別し、馬の得意な距離や馬場を優先してレースを選んでいます。もちろん例外もありますが。

 今から50年前のことを振り返ってみると、取りこぼしも多く絶対的な強さを持っていたわけでもないハイセイコーが多くの人に愛されたというのは、まるでこの競馬ブームをさらに盛り上げるため休まず出走し続け、最後まであきらめずにゴールめざして一所懸命に疾走する姿が、長くからの競馬ファンの心を掴んだからなのかもしれません。

 まだ連勝を続けていた昭和48年5月の「NHK杯」でのこと。最後の直線でなかなか先頭に立てないハイセイコーに対し実況中継をしていたフジテレビの盛山アナが「ハイセイコー、あと200しかないよー」とまるでハイセイコーを叱咤激励するような呼びかけ実況をしています。多くの人に愛されたハイセイコーの存在を象徴するような一つの事件だったと思います。

 ハイセイコーの引退後、主戦騎手だった増沢末夫が歌った『さらばハイセイコー』のレコードがオリコン4位となるほど大ヒットしたのは、競馬ファン以外にも多くのファンがいたことの確かな証拠ではないでしょうか。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)