(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)
パリ五輪も残すところ、あと5日ほどとなった。
わたしも人並みに愛国心があるので、日本を応援しているが、見ていて、あれやこれやがいささか不快である。
本来はこの4年に1度の大会のために、何年間も技を磨き、力を蓄えてきたアスリートたちの真摯で公正な競争の場であるはずなのに、国が絡むと、なぜ人間たちはかくも醜くなってしまうのか。
今回ほど、反則や勝敗をめぐる不可解な判定や誤審が問題になった大会はなかった。とくに柔道がひどかった。半分ほどの試合で、なんらかの作意が働いていたのではないかと思わせられる判定ばかりだった。
例えば、男子90キロ級の3位決定戦(7月31日)だ。フランス選手がブラジル選手に反則勝ちした試合である。あきらかに積極的に技をしかけていたブラジル選手に、いきなり3度目の反則が宣告されたのである。理不尽な負けだった。
大野翔平の解説で反則の理由がなんとかわかったが、そんな細かい専門的なことがわかった観客は、おそらくただのひとりもいない。だいたい勝ったフランス選手自身がきょとんとしていたではないか。当然、ブラジル選手は納得できない。
だが応援するフランスのファンは大喜びである。自分たちでも、「うそ! フランスが勝ったのか?」と思ったくせに、そんなことはどうでもよく、とにかくなにがなんでも勝てばいいのだ。当のフランス選手も、さっきまで「え? オレ勝ったの?」とまごついていたくせに、いまや手放しで喜んでいる。
主審は審判委員のロボットか
こういうケースが今回やたら多かったのである。不愉快なのは、ファンの側と選手双方に対してである。
不可解な判定であろうと、あきらかな誤審であろうと、観客はそんなことはどうでもよく、とにかく勝ちゃあいいのだと、大喜びする。そしてまた信じられないことに、選手もそうなのだ(まあ、選手はそうするほかないのだろうが。わたしの負けだ、という選手はいない。スポーツマンシップもへちまもない)。
同じ90キロ級の、日本の村尾三四郎とジョージアのベカウリの決勝戦(7月31日)も不可解だった。
「技あり」を両者1つずつとったあと、村尾の内股の「技あり」が決まったかに見えた。しかし審判団はこれをシレッと無視した。観客は大ブーイング。
最後に両者の同時技をベカウリの「技あり」と認定し、ジョージアの勝ちにしたのもばかげた判定であった。ほんとうは村尾の幻の内股で決まっていたのである。解説の大野翔平は控えめに、村尾の内股を「技あり」ととっていた。
「柔道」ではなく、いまの「JUDO」の判定では、相手が倒れて横になった状態でも、これを無理やり転がしてひっくり返し(これを、押し切る、という)、体側がつけば技あり、背中をつければ一本勝ち、というばかげた判定になるのである。村尾が最初の「技あり」を取られたのも、この転がしである。
誤審といえば思い出すのが、2000年シドニーの男子100キロ超級の決勝戦だ。フランスのドゥイエと篠原信一の試合で、ドゥイエの内股を篠原が内股すかしで返したのである。