吉川:意外と知られていないのですが、めがね橋の足元(国道18号旧道沿い)に説明看板があります。その後半には次のように書かれています。

すぐれた技術と芸術的な美しさは、今なおその威容を残しております。ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです
昭和45年1月1日 高崎鉄道管理局 松井田町教育委員会

 昭和45年(1970年)、今から54年前にすでにこのような記述がされているのです。

めがね橋の説明看板(写真:吉川弘道)めがね橋の説明看板(写真:吉川弘道)

――勝手な想像ですが、狩山陸は少年のころに碓氷峠を通り、めがね橋を見て「なんじゃこりゃ!」と衝撃を受けたのではないでしょうか。

吉川:そうかもしれませんね。そのときにこの説明を狩山少年が読み、将来“日本一の橋屋”を自認する原点となった、とも考えられます。

――ドラマをご覧になって、土木の専門家としてはどのようにお感じになりましたか。

吉川:「はい、日本一の橋屋が来ました」と狩山陸部長が、公言する場面が忘れられません。そこには、確かな設計技術と実績の下に、橋梁エンジニアとしての矜持がほとばしっています。

 橋梁の形式は多岐にわたりますが、我が国には、それぞれにプロフェッショナルがいて、私は彼らからさまざまな手柄話を聞きました。

「PC橋を20橋、建設しました」
「本四の基礎(超大型ケーソン)は私が陣頭指揮をとって、悪天候などがあったが予定工期で完成させました」
「私は、橋の再生のプロです。できないことはありません」

 このような体験談が、学校の授業や、大学生・高専生のリクルート時に語られることを願っています。

――ほかに印象に残った場面はありますか。

吉川:いくつもありますが、一つだけ挙げるなら、最終回に狩山陸が法廷で語った言葉です。

橋は土地と土地を、人と人をつなぐ構造物です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
その橋を人が渡れば、街ができます。
経済が生まれて文化が生まれます。
目の前に川が流れていたなら、橋を架ければいいんです。
その橋は人にしか造ることができません。

※第1回、第2回の放送に関する考察はこちら。
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