(宮沢 洋:BUNGA NET編集長、編集者、画文家)
建築家隈研吾氏のデビュー作は「伊豆の風呂小屋」という一風変わったタイトルだ。どのような経緯で設計することになったのか、そして実際どのような建物なのか。画文家の宮沢洋氏のインタビューと写真で紹介する。(JBpress)
※本稿は『イラストで読む 湯けむり建築五十三次』(宮沢洋著、青幻舎)より一部抜粋・再編集したものです。
──隈さんは、デビュー作が「伊豆の風呂小屋」(静岡県熱海市、1988年竣工)です。当時、私はなんて変わったタイトルを付ける人なんだろうと思った記憶があります。普通の建築家なら、「伊豆の望洋楼」とかではないかと。当時から風呂の時代が来る、という読みが?
隈研吾:そうではないですが、あの建築のタイトルが自分の出発点になったことは確かです。
僕の原点は、著作でいうと『10宅論』(1990年、ちくま文庫)です。住宅の神格化、例えば篠原一男(「住宅は芸術である」と宣言した建築家、1925~2006年)の住宅論があってそれが安藤忠雄(コンクリート打ち放しを日本に広めた建築家、1941年~)に引き継がれていくみたいな構図、個人住宅の神格化みたいな流れをものすごく気持ち悪く感じていて、それを批判したのが『10宅論』だった。なぜ個人住宅を自分の思想とからめてそんなに偉そうに語るんだろうと。
実際には個人住宅の私有というのは、近代の資本主義の中にどっぷり飲み込まれていて、20世紀資本主義の最も効率的な道具としてあった。にもかかわらず、社会に対する神聖なる抵抗、一種のゲリラとしてたてまつること(注:安藤氏は自作を「都市ゲリラ住居」と呼んでいた)のおかしさを笑い飛ばそうと思った。僕が一番ひねくれていた時代です(笑)。
『10宅論』と、「伊豆の風呂小屋」は一対になっているんです。伊豆の風呂小屋を頼んできたのは、友達の友達で、自分は別荘を頼みたいわけじゃなくて、風呂場と脱衣場を設計してほしいんだと。温泉の出るところに安い土地を買ったから、脱衣場がでかくなったみたいなものを設計してほしいという奇妙な(笑)オーダーだった。