新宿ロフト名だたるミュージシャンがステージに上がったライブハウス「ロフト」(写真:地引 雄一)

 多くの人が、ライブハウス「ロフト」の名を一度は耳にしたことがあるだろう。今では全国に2000軒以上ライブハウスがあるが、最も古い歴史を持つ箱がロフトだ。イベント小屋が次々潰れたコロナ禍でも、政府金融機関から2億円の借金をして、ロフトは正社員50人とアルバイト100人を1人も切らずに守り抜いた。

※ライブハウス「ロフト」は、セブン&アイ・ホールディングス傘下の同名の雑貨店と経営上の関係はない

 はっぴいえんど、RCサクセション、サザンオールスターズ、BOØWYをはじめ、メジャーからインディーズまで、レジェンドとなった名だたるミュージシャンやバンドが立ったその舞台。ライブをしても数人しか客が集まらなかった時代から、彼らを応援し、成功に導いてきたライブハウス「ロフト」には、どんなドラマが詰まっているのか。『1976年の新宿ロフト』(星海社)を上梓した、「ロフト」創業者の平野悠氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──70年代に、西荻窪、荻窪、下北沢、新宿にライブハウス「ロフト」が次々と誕生した経緯について本書で語られています。「もともとジャズ喫茶をしたかった」とも書かれていましたが、改めてどのような経緯だったのでしょうか。

平野悠氏(以下、平野):僕は元全共闘のメンバーで、警察にも2回パクられていたから、大学を卒業すると就職先がありませんでした。所属していたのは超過激派として知られる共産主義者同盟(通称 ブント)だし、党員だったから偉かった。

 公安がいつも僕の動向をチェックしていたから、まともな勤め先なんて見つかるわけがない。本当は出版社に入りたかったのだけれど、すでに公安から「彼を雇っちゃダメ」と連絡が入っていた。公安の力はすごいもんですよ。

 妻も子もいたから、どうやって食っていこうか悩んだ末、40枚から50枚ほどのレコードを持っていたので、これを使ってジャズ喫茶をやろうと考えました。

 その程度のレコードの枚数で「ジャズ喫茶」を名乗るのはおこがましいと思いつつ、店を出したらお客が入ったんです。お客からは「このレコードの枚数じゃ、オレが持っているより少ないよ」なんてからかわれてね。

「次はお客さんの好きなチック・コリアのレコードを用意しときますよ」なんて言いながら(本当は僕はチック・コリアがあまり好きじゃないんだけれど)丁寧に対応していたら、若いお客さんが同情して、家からレコードを持ってきてくれるようになりました。

 最終的にはレコードの枚数は150枚くらいになりましたが、棚の3分の1くらいはお客さんのレコードだったね(笑)。

この時代、レコードは1枚2000円から3000円くらいしました。1日働いてもなかなか3000円稼げない時代ですから、レコードは高価でした。ステレオ設備も含め、自分で買えない人たちがジャズ喫茶に集まったのです。

 お客さんが持ってくるレコードの中には、フォークやロックのレコードも混じっていた。ピンク・フロイドの「原子心母」(1970)や、レッド・ツェッペリンの曲を聴いた時はぶっ飛んだね。ロックがいかに面白いか気づかされました。

 あの当時、烏山に住んでいた坂本龍一も僕の店の常連でしたよ。彼が19歳くらいで、僕が27歳くらいだったと思う。まだ、坂本でもロックを知らないという時代で、彼はうちの店で「面白いね」なんて言いながらロックを聴いていました。

──ジャズ喫茶からどうしてライブハウスの経営に移っていったのですか?