貞秀画「神名川横濱新開港圖(横濱風景画帖)」資料提供:神奈川県立図書館デジタルアーカイブ

(町田 明広:歴史学者)

横浜でのサトウの生活

 今回は最初に、アーネスト・サトウと横浜との関連について、述べておこう。サトウは、生麦事件(1862年9月14日、文久2年)の6日前に横浜に到着し、公使館事務の手伝いをしながら競馬やボーリング、ビリヤード、購入した馬での遠乗りなどを謳歌した。

 サトウは、「居留地を見おろす丘から見た神奈川方面の眺めは素晴らしく、風景はまさにイギリスそのものだ」と日記に書いている。一方で、居留地は活気に満ちていた反面、喧嘩や拳銃が発砲される危険で気が休まらない雰囲気であるとも書いていた。

 生麦事件や下関戦争を契機に、イギリスとフランスは自国軍隊による横浜居留地の防衛を主張したため、1863年(文久3)7月2日、英仏軍の横浜駐屯が決定した。なお、1875年(明治8)に撤退するまでの12年間に、横浜山手(現在の「港の見える丘公園」一帯)には兵舎、弾薬庫、武器庫などが建設された。横浜は、外国軍隊が駐屯する一大軍事基地となったのだ。

 ところで、1866年(慶応2)11月26日の午前9時頃、日本人町の土手通りから出火し、1日中、猛威の大火となった。この大火は、横浜大火(豚屋火事)と呼称される。外国人居留地や日本人町の大部分が、焦土と化したのだ

 さて、1865年(慶応1)4月以降、サトウは一時的に領事館付通訳官に任命され、居留地に最も近い日本人町の小さな日本家屋に居住した。この豚屋火事によって、衣類や家具、多数の書籍や英訳草稿を焼失してしまった。和書1箱、英和辞書の原稿、日記のみが類焼を免れたのだ。  

 なお、同居していた公使館付医官ウィリアム・ウイリス、同じく日本人町の日本家屋に居住の書記官ミットフォードと臨時通訳官シーボルトらも罹災し、大半の所持品が焼失した。幕府から提供された家屋は保険がなく、パークスはイギリス外務省に損害補償を要求し、サトウは270ポンドの補償金を得ている。

ウィリアム・ウイリス