(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
23区内にある確度の高い城跡
2023年の1月から13回にわたり「東京23区に古城を訪ねる」シリーズをお送りしてきたが、23区内にはまだ他にも城跡がある。中には、第6回で紹介した渋谷城のような「ガセ城」もあるのだが、今回は確度の高いものをいくつか紹介してみよう。
筑土城(つくどじょう/新宿区筑土八幡町)
JR飯田橋駅から北西に5分ほど歩いたところにある筑土八幡神社の境内が、室町時代に上杉氏が築いた城砦の跡と伝わっている。伝承はあやふやで、現在はっきりした遺構も残っていない。
けれども、八幡神社の境内は張り出した台地の先端に当たっている。いかにも要害地形で、小規模な城砦を置くのにふさわしい。三方を急斜面に囲まれた境内を曲輪とし、背後の御殿坂のところを堀切としていたのではないか。
なお、「御殿坂」の地名は徳川家光が鷹狩り用の御殿を置いたことに由来するが、太田道灌の別邸との伝承もある。
沖山の塁(板橋区四葉2丁目)
第12回(昨年12月)で紹介した赤塚城の東500メートルほどにある、都立赤塚公園の場所が城跡らしい。赤塚城と同様に台地の縁辺に当たっていて、記録や伝承は何もないのだが、台地の縁の位置に空堀の痕跡が残っている。空堀は、台地の東北の角で直角に折れ、南にしばらく走ったのち、竪堀となって斜面を下っている。
こうした形態を見る限り、軍事的な意図をもって築かれた構造物である可能性が極めて高い。赤塚城の時にも説明したように、このあたりは戦国時代の一時期、北条氏と扇谷上杉氏の勢力がせめぎ合う場所だった。沖山の塁の南東500メートルほどの住宅地でも、発掘調査で戦国時代の空堀が見つかっており(徳丸石川遺跡)、記録や伝承に残らない野戦築城のような軍事施設が、一帯にいくつか築かれていたようである。
練馬城(練馬区向山3丁目)
練馬城は、閉園した旧豊島園の敷地内にある。いや、あった。掲載した写真からは、あまり城跡らしさが感じられないかもしれないが、練馬城は戦国時代に実在したれっきとした城である。
1477年(文明9)、かねてから太田道灌と対立していた豊島氏一族は、長尾景春の叛乱に荷担し、石神井・練馬の両城に拠って兵を挙げた。石神井城は当主の豊島泰経が、練馬城の方は弟の泰明が守っていたが、道灌は練馬城に挑発攻撃を仕掛けて泰明をおびき出し、江古田原の合戦で討ち取った。ほどなく石神井城も攻略され、両城はともに廃城となった。
石神井城の方は、当シリーズの第1回で紹介したように、今も中心部の土塁・空堀が残っている。練馬城の方も、戦前までは土塁と空堀がよく残っていて、南側の虎口は馬出のような構造だった。
しかし、戦後になって城跡は遊園地として開発され、遺構は跡形もなく失われてしまった。1970年代末〜80年代に、豊島園の施設建設にともなって発掘調査が行われて、堀や虎口の一部が確認され、記録として残されたのが救いであろう。城地は蛇行する石神井川に面しており、現在は対岸に魔法のお城があるらしい。
さて、これで東京23区内のおもだった城跡は紹介したが、当シリーズはもう少し続くので、来月もお付き合いいただきたい。
[参考図書] 太田道灌と豊島兄弟の戦いについて詳しく知りたい方は、拙著『東国武将たちの戦国史』(河出文庫)をご一読下さい。普通の歴史書ではなかなか取り上げられない東国武将たちの知略を尽くした戦いと人物像を知ることができます。