さみしがり屋だった喜劇王エノケンの本質

 人懐っこくてどんなアドリブも見事にこなしたエノケンは、後進の指導にも熱心でした。

 令和5年(2023)、鬼籍に入った財津一郎はエノケンが開設した映画演劇研究所(大田区雪谷。いわゆるエノケン学校)の門下生でしたが、昭和44年(1969)、帝国劇場『浅草交響楽』での劇中劇の稽古中、義足をつけたエノケンから受けた熱血演技指導の言葉が忘れられなかったそうです。

「余裕を見せることなく気迫を込めて大悲劇として演じなければ心に届く喜劇にはなんねえよ」

 NHKの朝ドラ『ブギウギ』でも演じられていましたが、終戦の翌年、昭和21年(1946)3月、有楽座「舞台は廻る」でブギウギの笠置シヅ子と初共演した際、役者としては未知数だった笠置に対して「私が全部受け止めるから、思うように演じなさい」と安心させたエノケンの指導も有名ですね。

 人気絶頂の頃、ターキーこと水の江瀧子がエノケンを評して「日本人に出せない派手さとペーソスを感じさせる人」「大勢の人に囲まれながらもちょっと寂しそうな人」と述べています。

 また、周囲から「エノケンの舞台や映画は面白いけど、エノケン自身は面白くないよ」とささやかれることのあったエノケンですが、森繁久彌によれば、エノケン自身が「本当に陽性の男は喜劇役者に向かない。自分は陽気に見えるだろうが、実は陰性の男。いつでも陽気にしていないと気が滅入るので、それで騒ぐんだ」といった趣旨のことを言っていたそうです。