(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)
浅草オペラから映画の世界へ
筒井康隆の著書に『不良少年の映画史』がありますが、単行本も文庫もカバーにはイラストでエノケンが描かれています。このことからも筒井が愛した昭和10年代の映画を代表する顔が、エノケンだったことがわかりますね。
日本初の本格的トーキー映画とされる『マダムと女房』が公開されたのは昭和6年(1931)ですが、それから3年後の昭和9年(1934)にエノケン初の主演映画が製作されます。
映画の製作といっても、当時はエノケン劇団の芝居が大人気で中止するわけにもいかず、午前中は外での撮影、午後は舞台、夜は撮影所のセットでの撮影と、ほとんど寝る間もなく動き回っていたエノケンでしたが、その努力が報われて映画は大ヒットし、エノケン人気が全国へと広がりました。
映画『青春酔虎伝』から始まったエノケン伝説
当初、松竹に在籍していたエノケンがP・C・L(東宝の前身)に招かれた際、監督として山本嘉次郎を指名、それまで日活京都に在籍していた山本は「譜面を読める」ということで、エノケンとはお互いに和製ミュージカル映画を夢みる、気の置けない仲でした。
そして製作されたのが『エノケンの青春酔虎伝』(監督・山本嘉次郎、音楽・紙恭輔、栗原重一)です。
ハリウッド製ミュージカル映画で使われていた曲を換骨奪胎、日本語の歌詞を乗せて歌いました。映画のエンディングは、ビアホールを模した吹き抜けのセットでの大乱闘シーン。エノケンは本領発揮、6分近く続く乱闘シーンを見た当時の観客は、エノケンのアクロバティックな動きにさぞかし驚いたことでしょう。
エノケンはこの乱闘シーンの撮影中、つかまっていたシャンデリアから落ちて入院生活を余儀なくされたそうで、私は思わず、ジャッキー・チェンのことを思い起こさずにはいられませんでした。