耐えがたきエノケン落日の日々

 戦後も「エノケン」の名が冠となる映画は昭和29年(49歳)まで続きますが、私生活における40代後半からの人生の暗転は、エノケンにとってきわめてつらいものになりました。

 以下、主なものを記してみます。

・昭和25年(1950)1月、舞台中に左足激痛、特発性脱疽(壊疽)発病で舞台休演(45歳)。

・同年5月、エノケン劇団解散。

・同27年11月、脱疽再発のため右足指5本切断(48歳)。

・同29年1月、「日本喜劇人協会」設立。会長に就任(49歳)。

・同32年(1957)7月、長男・鍈一(享年26)と死別(52歳)。

・同37年9月、脱疽悪化のため、右足を大腿部から切断(57歳)。

・この当時、借金生活で税金を払えず(何度も自殺未遂を繰り返した時期だそうです)。

・同37年、来日中だったハロルド・ロイド(サイレント映画時代の米国スター)による励ましにより、義足をつけての舞台復帰を決意。その後、最晩年まで舞台、映画、テレビにも出演。

・同40年(1965)、「サンヨーカラーテレビ」のCMソング、スタート。顔出しで歌っています。昭和11年公開の映画『うちの女房にゃ髭がある』(エノケン主演作ではありません)の替え歌です。

・同42年9月、昭和4年の結婚前から40年近く連れ添った最初の妻、花島喜世子と離婚。

・同42年10月、戸塚よしゑと再婚。

・同45年1月7日、肝硬変にて死去。

 享年65でした。

今こそ楽しみたい、忘れがたき映像と歌声

 令和6年(2024)の今年、エノケン没後54年、生誕120年を迎えます。元日から目を覆いたくなるような災害・事故が重なる中、YouTubeで見られるエノケン映画を見ながら、ひととき無邪気なドタバタ喜劇で頬を緩めてみるのも悪くはないかと思います。

 エノケンの音源と映像は、戦災で失われたものも多いのですが、戦前活躍した人としてはかなりの量が残されています。

 もともと膨大な量が残っていたためでもあり、それはまたエノケン人気を物語っていることでもあります。

 私たちがその音源や映像を楽しまないというのは大変もったいないです。また、温故知新、CG映画全盛の今だからこそ見えてくる、本来の人間の姿に出逢えるかもしれません。 

 

(参考)
『エノケンと呼ばれた男』(井崎博之著、講談社)
『榎本健一 喜劇こそわが命』(榎本健一編、日本図書センター)
『エノケンと〈東京喜劇〉の黄金時代』(東京喜劇研究会編、論創社)『エノケンと菊谷栄』(山口昌男著、晶文社)
『エノケン芸道一代』等のCD類

(編集協力:春燈社 小西眞由美)