(歴史ライター:西股 総生)
忽然と出現した一大軍都
前回、唐津城を紹介したので、やはりこの城をとり上げるのがいいだろう。文禄・慶長の役に際して、豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城である。
戦国時代の日本は、戦争が経済を回しているような社会だったから、豊臣政権も勢力の拡大がそのまま増収増益となるような、イケイケドンドンの拡大路線を突っ走った。国内の統一が終わったら、海外に矛先が向くのは必然の成りゆきだったわけだ。というか、秀吉は配下の武将たちに「国内を平定したら、次は海外進出だ」とアオることで、統一事業を推進したのである。
そんな秀吉は、「日本は軍事大国だから中国くらい征服できるだろう」くらいに考えていたらしい。そして、朝鮮王朝に対し「服属して豊臣軍の露払いを務めろ」と要求したが、もちろん通るはずがない。
そこで、痛い目にあわせてやれば言うことを聞くだろう、と考えて大軍を送り込み、自らは肥前名護屋に進出して戦果を待つことにした。地図を広げてみよう。呼子半島の先端にあたるこの場所に「大本営」を置いた理由は、一目瞭然だ。朝鮮半島と九州を、最短距離で結べる地点なのである。
秀吉はこの場所に、五重の天守をいただく壮麗な城を突貫工事で築き、周辺には動員された諸将がめいめいに陣を構えた。直下の港には大小の船が行きかい、あちこちから商人や職人、娯楽を提供する者たちが集まってきて、一大軍都が忽然と出現することになった。
肥前名護屋城へは、唐津からバスで30〜40分ほど。あまり本数が多くないので、よく時間を確認しておかないと、大変なことになる。大いに賑わった軍都も、いまは小さな漁港と、畑と森。周囲の丘には発電用の風車が並んでいる。そんな海風の吹き抜ける丘の上に、ただ崩れた石垣ばかりが残っている。
城郭研究者たちの間では、肥前名護屋城の縄張は石垣山一夜城とよく似ている、と評されている。なるほど、平面図で見ると縄張の「芸風」みたいなものが、たしかに共通しているようだ。
でも、現地を歩くと、名護屋城の方が全体にスケールが大きいし、天守台も巨大だ。しかも本丸は、かなり工事が進んでから設計変更で拡張されたことがわかっている。現地を視察した秀吉が「ちょっと狭ゃーでねーの」とか、言ったんじゃなかろうか。
よく見ると、どの曲輪も石垣はW形に崩れている。意図的に崩されているのだ。石垣の角の部分も、例外なく崩れている。大陸侵攻が行き詰まる中で秀吉本人が世を去り、ほどなく豊臣政権そのものも空中分解してしまい、肥前名護屋は急速に廃墟になっていった。
加えて、島原の乱のあと一揆勢などが利用しないよう、各地の古城は徹底的に破却されたが、この城も例外ではなかった。石垣をW形に崩したり、角を落としたりしたのは、上に建物や塀を建てられないようにするため、つまりは城(=軍事基地)として再利用できなくするための処置である。対外侵略の歴史とともに、日本が平和へと舵を切った歴史も、この城には刻まれているのだ。
そのあたりの詳しい事情を知りたい方は、城の隣に建つ肥前名護屋城博物館に立ち寄るとよい。周囲には諸将の陣跡が点々と残っていて、車があればあちこち回ることもできる。
ただし、実際に渡海した諸将の陣は、ごく簡素な造作で済ませているから、有名な武将の陣所だから立派な陣だろう、みたいに期待すると肩すかしを食う。また、整備されているのは一部だけで、大半の陣跡は藪が深いので、無理はしない方がよい。
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