前回、唐津城を紹介したので、やはりこの城をとり上げるのがいいだろう。文禄・慶長の役に際して、豊臣秀吉が築いた肥前名護屋城である。 戦国時代の日本は、戦争が経済を回しているような社会だったから、豊臣政権も勢力の拡大がそのまま増収増益となるような、イケイケドンドンの拡大路線を突っ走った。国内の統一が終わったら、海外に矛先が向くのは必然の成りゆきだったわけだ。というか、秀吉は配下の武将たちに「国内を平定したら、次は海外進出だ」とアオることで、統一事業を推進したのである。 そんな秀吉は、「日本は軍事大国だから中国くらい征服できるだろう」くらいに考えていたらしい。そして、朝鮮王朝に対し「服属して豊臣軍の