彼が総理大臣の時にその演説を聞いたことがある。

「わだぐじが田中角栄であッりッます」

 あの独特の腹から絞り上げるようなダミ声で聴衆の一人一人にせっかちに語りかける演説は、一言一句に異様なほどの説得力があった。真夏のギラギラと照りつける太陽の下で、顔中に玉のような汗をぎらつかせ、その汗が顎からぽたぽた滴り落ちていた。

病に倒れ人前に姿を見せなくなった角栄氏の「お国入り」情報

 次に目撃した田中角栄は失意の中にいた。話はその2年前の1985年に遡る。

 ロッキード事件での実刑判決には敢然と戦う意志を見せていた田中角栄だが、身内の竹下登らの反逆による田中派の分裂という事態に見舞われ、ウイスキーをがぶ飲みして気を紛らわせた。その数週間後に脳梗塞で倒れたのだった。

 マスコミはこぞって田中角栄を追った。「目白御殿」の前には連日マスコミが張り込み、一目でも田中角栄の姿を捉えようと各社のカメラマンは高い脚立の上から邸内を窺ったりもした。しかし、その姿を捉えることはできないまま日が過ぎていった。

 病状についても娘の眞紀子さんは口を閉ざしていた。

角栄氏の退院の報を受けて角栄邸に多数のメディアが集まった。張り込みは24時間体制で1カ月も続いた
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 そんな状況の中、「田中角栄が新潟の実家に行く」という情報が入り、私は新潟県西山町(現・柏崎市西山町)の田中邸に向かった。

 果たして、田中角栄は姿を現した。