慶長の役(1598年、写真:GRANGER.COM/アフロ)

 NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第38回「唐入り」では、天下統一を果たした豊臣秀吉が、明国の征服を次なる目標に掲げて、諸大名を肥前名護屋城に集結させた。朝鮮への出兵が開始されると、秀吉自らも渡航すると言い出したため、家康は何とか止めようとするが……。今回の見所について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

秀吉は早々と海外戦略を考えていた

 天下統一を果たした豊臣秀吉は、2度にわたって朝鮮への出兵に踏み切った。目的は、明国の征服である。そのために経由地となる朝鮮に服属を命じたが拒絶されたため、まずは朝鮮に攻め入ることになった。1度目の朝鮮出兵を「文禄の役」(1592~1593年)、2度目を「慶長の役」(1597~1598年)と呼ぶ。

 ドラマでは、跡取り息子の鶴松をたった3才で亡くした秀吉が、呆然としながら「次は……何を手に入れようかの?」と口にして、海外への野望に火をつけた様子が描かれた。

 だが、明や朝鮮への支配はかねてより秀吉の頭にあった。鶴松を亡くしたのは1591(天正19)年だが、6年前の1585(天正13)年の時点で、秀吉は家臣の一柳直末に印判状を出している。そこには次のように書かれていた。

「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候(そうろう)心に候歟(か)」(『伊予小松一柳文書』)

 関白に就任したばかりの頃に、すでに秀吉は対外侵略を意識していたことがわかる。さらにいえば、この頃、まだ九州を平定していなかった。それでも前年に家康を服属させたことで、秀吉のなかで天下統一の見通しがついたのだろう。それほど、家康を従わせることは、秀吉のなかで大きなポイントだったようだ。

 1586(天正14)年には、秀吉は大阪城で宣教師と面会し、こんな申し出までしている。

「全国を平定すれば明・朝鮮に出兵するつもりだ。ポルトガルから船を買い入れる世話をたのみたい」

 そうして秀吉の野心は徐々に醸成されていき、1592(天正20)年に朝鮮出兵が決行されることになった。