石垣山城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

関東地方で最初に築かれた本格的な近世城郭

 豊臣秀吉が小田原城を攻めるために築いた石垣山城は、またの名を一夜城とも言い、関東地方で最初に築かれた本格的な近世城郭として知られている。高石垣や天守を備えた城ということだ。

 通説では、この城を秀吉は80日間の突貫工事で完成させると同時に、まわりの木を一気に切り倒した。小田原城内からこの様子を見た北条方は、一夜にして立派な城ができあがったのかと肝をつぶし、戦意を失ってしまった……というように語られてきた。そして、これまで多くの歴史家が、石垣山城は秀吉の力を敵に見せつけるための城だった、と評価してきた。

石垣山城の本丸から小田原の街並みと相模湾を望む

 しかし、この通説には常識的に考えて疑問点が多い。まず、石垣山城の現地に立ってみると、小田原城と相模湾がよく見える。太閤殿下も、同じ景色を眺めていたはずだ。でも、ということは、逆に小田原城からも石垣山がよく見えるはずではないか。いや、実際、よく見えるのだ。

 それに、高石垣を擁する本格的な城を、森の中でこっそり築造することなど、できるものだろうか? 野戦陣地のような砦ならともかく、石垣山城のような本格的な城を築くためには、本丸や二ノ丸にする場所を整地しなくてはならない。

秀吉はこの地に総石垣造りの城を築いたが、江戸時代以降この地方でたびたび起きた地震によって崩落が進んでいる

 当然、最初に樹木の伐採・抜根が必要である。だとしたら、豊臣軍が大がかりな築城工事をしている様子は、北条側にも見えていたはずではないか。

 しかも、実際に石垣山城の現地を歩いてみると、「権力を見せつけるための城」という通説にとって不都合な事実が、すぐに見つかる。石垣山城の本丸で小田原城がよく見えるのは北東隅のあたりで、いまはそこに展望デッキがある。

 ところが、天守台はその反対側の南西隅にあるのだ。つまり石垣山城の天守は、小田原城に見せつけるにふさわしい場所には建っていなかったわけである。

石垣山城の天守台跡。地震によって崩れた石垣の石が周囲に散乱している

 もっと不都合な事実がある。石垣山城の天守台付近では、これまでに天正19年(1591)、つまり小田原落城の翌年の銘が刻まれた瓦が2点見つかっている。しかも、翌年になって瓦が葺かれた必然性があることも、わかっている。

 北条氏が滅んで徳川家康が関東に入った後、徳川の旧領である東海道筋には秀吉子飼いの武将たちが入部した。山内一豊、中村一氏、堀尾吉晴、田中吉政といった面々だ。彼らが一斉に築城に取りかかったために、上方から瓦職人が動員されて、東海道筋の城普請に順に携わったことが、考古学的研究から判明しているのだ。石垣山城にも、この流れで瓦が葺かれた、と考えて間違いないだろう。

家康が関東に移った後の浜松城には堀尾吉晴が入った。現在見る浜松城の主要部分は堀尾吉晴によって築かれたものだ

 だとしたら石垣山城の天守は、小田原攻めの時点では未完成だったか、ないしは板葺きで暫定完成していた、と考えるのが自然ではないか。秀吉がこの城に入った1590年6月25日の時点では、本丸がどうにか住めるようになった程度で、城はあちこち未完成な部分を残していた可能性が高い。

石垣山城本丸の石垣。写真左側が二ノ丸

 実際、石垣山城を歩くと、本丸・二ノ丸・三ノ丸といった中心部は石垣を積んでいるが、その周囲には造成だけして石垣を積んでいない曲輪が広がっている。計画通りに城が完成する前に小田原城が降伏したので、外側の曲輪は工事を中止したと見てよいだろう。

 秀吉の力を見せつけるための城だとか、北条側が仰天して戦意喪失した、などという話は、合理的に考えて成り立ちようがないのだ。(つづく)