アヘン戦争の衝撃と「天保薪水給与令」

このような事態に至りながらも、幕府も無二念打払令から穏便な薪水給与令に転換することはなかった。しかし、アヘン戦争(1840~42)における清の惨敗の情報が舞い込んだのだ。さらに、長崎のオランダ商館長からも、イギリスがアヘン戦争後に日本に艦隊を派遣して通商を求め、拒否すれば戦争も辞さない方針であるとの情報が伝えられた。事態は一気に、風雲急を告げる。
こうした情報は、一転して幕府に政策を転換しなければ、清の二の舞になりかねない恐怖を抱かせるのに、十分なインパクトを伴った。この事実に驚愕した幕府は、それまでの無二念打払の政策を放棄せざるを得なくなったのだ。天保13年(1842)7月、幕府は天保薪水給与令を発令した。これによって、窮乏している場合に限って、食料・薪水を外国船に提供することが再び可能になり、撫恤政策の復活である。
文化薪水供与令と比較すると、幕府の仁政によるものと強調されており、万国に対する処置として、文政無二念打払令は大いに問題があることを率直に認めている。確かに、イギリスなど列強の日本への進出を忌み嫌っていた。しかし、長崎からの情報などから、国際社会の中で無二念打払令を実行することは、ルールに反するものと幕府は自覚していたのだ。
いずれにしても、押し寄せる厳しい国際情勢の中で、列強に抗しがたいことを悟った幕府は、厳しい国際社会に否応なく取り込まれることを意識せざるを得なくなったのだ。こうして見ると、天保薪水給与令は極めて意義深い法令である。この法令によって、幕府は期せずしてペリー来航という、ウエスタンインパクトの衝撃を緩和することが可能となったと言えよう。ペリー来航まで、後わずか10年である。