イギリスの横暴に対する「文政無二念打払令」

 こうしたイギリス船の横暴に対し、幕府はとうとう堪忍袋の緒が切れて、文政8年(1825)2月にイギリス船を含むすべての外国船を対象にした、「文政無二念打払令」を発令した。これは、外国船であれば国籍を問わず、見つけ次第すべてに砲撃して追い返すことを命じたものであった。

 この法令は、ロシア船打払令から大いに前進して、すべての外国船が打ち払いの対象となっており、寛永鎖国令、つまり初期鎖国政策へ完全に戻ったことになる。それほど、イギリス船の傍若無人振りは、目に余るレベルであったのだ。

 とは言え、幕府の意識の中では、イギリスが日本と戦争をするために、わざわざ極東まで艦隊を派遣するとは夢想だにしておらず、そもそも捕鯨船レベルでは打ち払っても紛争に至らないという打算もあった。

 むしろ、民衆に外国船への恐怖心と敵愾心を植え付けることが優先されたと言えよう。その結果、イギリスに止まらない、すべての外国船が打ち払いの対象となったのだ。

初めての攘夷実行・モリソン号事件の実相

 文政無二念打払令から12年後が経過した天保8年(1837)、モリソン号事件が勃発した。この事件を一つの契機として、鎖国政策は再度の動揺を余儀なくされたのだ。モリソン号事件は、実は知られざる大事件であるが、その実相に迫って見よう。

モリソン号

 モリソン号事件とは、浦賀に来航したアメリカの商船モリソン号に対して、イギリス船との誤認もあって、浦賀奉行所が文政無二念打払令に従って、砲撃を加え追い払った事件である。その後、モリソン号は薩摩藩の山川港にも入港したが、ここでも、薩摩藩によって威嚇砲撃されて、退去せざるを得なかったのだ。

 この事件において、最も見逃してはならない点は、日本で初めて攘夷が実行されたことである。それまでの「寛永鎖国令」・「ロシア船打払令」は、打払いを命じた法令として存在していたが、実行されたわけではない。「文政無二念打払令」の段階で、初めて実際の打払いが実行されたのだ。幕府も薩摩藩も、幕末以前、ペリー来航前にすでに攘夷を実行していたことになり、モリソン号事件は、本来、日本史上で重要な事件の一つのはずである。

 ちなみに、モリソン号の来航目的は何だったのだろうか。実は、マカオで保護されていた日本人漂流漁民の送還と通商・布教を日本に要求することであった。そのことが、1年後になって判明し、文政無二念打払令に対する批判が強まったのだ。なお、この事件をきっかけにして、幕府の対外政策を批判した渡辺崋山・高野長英が逮捕された、蛮社の獄が起こっている。

渡辺崋山。死後13回忌を記に弟子により描かれた肖像画