(写真:querbeet / E+ / Getty Images)

中世ヨーロッパ風の架空世界の経済活動に光を当て、狼の化身ホロと青年行商人ロレンスの旅を描いたライトノベル作品『狼と香辛料』シリーズ(著:支倉凍砂)。その奥深い世界観を、西洋史を専門とする研究者が読み解く!

WEBメディア「シンクロナス」の人気連載「〝中世ヨーロッパ風〟ファンタジー世界を歴史学者と旅してみたら」は、ゲーム・漫画・アニメ等のフィクション作品を取り上げて、歴史の専門家の目線から見どころを解説するシリーズ。第2弾となる『狼と香辛料』編から一部をお届けする。

(文・仲田公輔)

ロレンスと商人たちのネットワーク

 『狼と香辛料』の主人公である商人ロレンスは、ローエン商業組合に所属する行商人である。こうしたネットワークを形成した商人の活動には明確なモデルが存在する。

 第1回の記事でも触れた『狼と香辛料』の公式ガイドブック『狼と香辛料の全テ』(アスキー・メディアワークス、2008年)には「現実世界と『狼と香辛料』の世界」というコラムがあり、ここで商人たちの活動のモデルは、「ハンザ同盟」であると言われている。

 ハンザ同盟という用語は高校世界史にも登場するが、「ハンザ」は北ヨーロッパにおける都市横断的な商人の同盟を指す言葉であり、通常「ハンザ同盟」と言われるときに意味されるのは、14~15世紀にバルト海や北海で活動したドイツ・ハンザのことである。最盛期には100を超える都市が参加し、特にリューベックやハンブルクといった北ドイツの都市は、その拠点として繁栄した。

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 ドイツ・ハンザの商人たちが主に取引していたのは、北ヨーロッパで生産されるライ麦、ニシンの塩漬けといった食料品や、毛皮などである。『狼と香辛料』の作中でも、毛皮やライ麦はロレンスも取り扱っていたし(それぞれI巻、IV巻)、ニシンの燻製も登場した(I巻)

 後に中世都市についても触れたいが、中世の都市において、人々は自分たちの権利や安全を守るために、様々な団体を組織した。そうした相互扶助の団体が、高校世界史の教科書に出てくる「ギルド」である。

 真っ先に団体を形成した職分が、まさに商人だった。ロレンスもところどころでぼやいているが、一箇所に定着せず、各地を移動する不安定な立場の行商人は、相互扶助を必要としていたのである。

 ローエン商業組合の他にも、作中には様々な商人の組合が登場する。I巻の舞台となるパッツィオでは、ロレンスに協力するミローネ商会や諍いを起こすことになるメディオ商会が登場する。

 I巻の舞台は街の名前「パッツィオ」を始めとしてどことなく語感も雰囲気もイタリアを思わせるところがあるが、中世イタリアにおいても「コンパニア」「ソキエタス」と呼ばれる会社組織が形成されていた。それぞれ英語のCompany, Societyに通じる語である。

 商業だけでなく、政治的利害のために結びつく都市同盟も存在する。例えば1167年にイタリア諸都市が結んだロンバルディア同盟は、ドイツの神聖ローマ皇帝のイタリアへの介入に抵抗した。これは『狼と香辛料』II巻152頁で言及されている、世界最強の経済同盟が大国との真っ向勝負に勝利したエピソードのモデルであろう。

 行く先々で商人のネットワークを活用しつつ冒険するロレンスの姿は、こうした西洋中世の実態を下地にしていると考えられる。

ハンザ都市として栄えたリューベック。(写真:Innomann / CC BY-SA 3.0 / via Wikimedia Commons)

賢狼ホロ信仰を追いやる対異教徒の最前線

 もう一人の主役である賢狼ホロは、キリスト教をモデルにした「正教会」による布教が進む以前に豊穣の神として信仰の対象となっていたが、今は唯一神を崇める「正教会」によって異教の因習として弾圧される対象になっているという。これは「北の十字軍」をベースにした世界観だと考えられる。

 「北の十字軍」は「ヨーロッパ」を押し広げた運動だった。

 突然だが、中世における「ヨーロッパ」はどこからどこまでを指す概念だろうか? 今日のだと、英仏独伊など西ヨーロッパをイメージする人、もう少し広げてEU加盟国をイメージする人など、様々かもしれない。

 中世に関しては、「ヨーロッパ」の概念が自明ではないのだが、例えばラテン・カトリック(ここではラテン語を典礼言語とし、ローマ教皇庁の管轄下にあるキリスト教徒たちと定義しておこう)の信仰が広まっていた地域をヨーロッパとするならば、9世紀以前においては「西ヨーロッパ」の範囲すらカバーしきれていなかった。

 今日のドイツ連邦共和国を例にとって考えると、その中央部を流れるエルベ川のあたりが最前線となっており、10~11世紀にその東でキリスト教を受け入れたチェコ、ポーランド、ハンガリーといった国家の原型が形成されていったが、さらに東は伝統的な多神教を信仰するスラヴ人やバルト系の人々の異教徒の世界が広がっていた。中世を通して、この方面にも重なる十字軍が行われ、次第にキリスト教化とヨーロッパ世界への組み込みが進んでいったのである

マクデブルク大聖堂。エルベ川東岸のこの街は986年、神聖ローマ皇帝オットー1世によって、スラヴ人改宗の拠点とすべく大司教座に昇格させられた。(写真:Bild: © Ajepbah / Wikimedia Commons)

 『狼と香辛料』でも、異教徒との戦いである「大遠征」が描かれ、また「正教会」の信仰の広がりが古い信仰を追いやっていく様が描かれている。その中で伝統的な信仰は存在感を失っていき、ホロは故郷ヨイツを目指して北に帰る旅を始めるのである。

 二人の主役を取り巻く商業と異教徒討伐以外では、どのような点が実際の中世ヨーロッパを意識して描かれているだろうか。次回以降、詳細に見ていくことにしたい。

参考文献

  • 小澤実・薩摩秀登・林邦夫『辺境のダイナミズム』(岩波書店、2009年)。
  • 高橋理『ハンザ「同盟」の歴史―中世ヨーロッパの都市と商業』(創元社、2013年)。
  • 山内進『北の十字軍―「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社学術文庫、2011年)。
  • ロバート・バートレット『ヨーロッパの形成―950–1350年における征服、植民、文化変容』伊藤誓/磯山甚一訳(法政大学出版局、2003年)。

著者プロフィール
仲田 公輔
岡山大学 文学部/大学院社会文化科学学域 准教授。セント・アンドルーズ大学 歴史学部博士課程修了。PhD (History). 専門は、ビザンツ帝国史、とくにビザンツ帝国とコーカサスの関係史。1987年、静岡県川根町(現島田市)生まれ。 >>著者詳細

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