(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
九品仏(浄真寺)がそのまま城域の奥沢城
東京23区内の城跡を紹介するこの連載、前回(2月)の世田谷城につづいて世田谷区内の城を紹介してみよう。東急大井町線の九品仏駅からほど近くにある、奥沢城である。
奥沢城は、世田谷吉良氏の重臣だった大平氏の城といわれている。後述するように、この言い伝えはかなり疑問なのだが、大平氏の身の上がちょっと面白い。
前回説明したとおり、世田谷吉良氏は、戦国時代に北条氏が関東に勢力を伸ばしてゆく中に、島のように取り残された独立国のようになっていた。ところが、勢力を広げる北条氏は敵も増えるので、次第に不本意な多正面作戦を強いられるようになってきた。
そこで、猫の手も借りたい北条氏は、平和な独立国である吉良氏に要請することになる。「お宅の重臣を、ちょいと拝借させてもらえませんか? なにせ、非常事態で人手が足りないもので」。こうして、大平氏をはじめとした何人かの吉良家臣たちが、北条軍に「出向」することになった。
ところが、北条軍の「非常事態」はなかなか解消しない。大平氏ら出向組は北条軍の一員として各地を転戦しているうちに、いつの間にか北条氏の家臣扱いになってしまったのだ。要するに、家臣の借りパクである。
実は、足利義昭に仕えていた明智光秀が、いつの間にか織田信長の家臣になってしまうのも似たような事情によるものだ。家臣の借りパクは「戦国あるある」というわけだ。このあたりの事情を詳しく知りたい方は、拙著『戦国武将の現場感覚』をご一読いただきい。
話を奥沢城に戻そう。
九品仏(くほんぶつ)の名で知られる浄真寺が、そのまま奥沢城の城域なので、東急大井町線の九品仏駅を降りれば迷うことはない。ただし、お寺は信仰の場だし、墓参りの人も多いので、くれぐれもマナーを守って見学しよう。
お寺の境内をほぼ正方形に囲むように、150メートル四方で土塁が残っている。北面から西面北側にかけての土塁は墓地となっているが、南面から西面にかけては残りが良い。
境内側から土塁を確認できたら、外回りの道路を歩いてみると土塁の高さがよくわかるはずだ。注意深く観察してほしい。土塁に面した道路が、外側の民家敷地より少しだけ低くなっているのが、わかるだろうか。この道路は、堀を埋め立てた跡なのだ。実際、西面の道路では、区の発掘調査によって堀が確認されている。
こんなふうに、「ブラナントカ」の要領で微地形を観察しながら、浄真寺の周辺も歩いてみる。境内の北に広がる墓地を抜けると公園があって、小さなせせらぎが流れている。見回すと、境内より明らかに土地が低い。
奥沢城は、南から北に向かって張り出した台地の先端にあたっていて、かつては西・北・東の三方を川や水田に囲まれていたのだ。平らな地形が広がっている地域では、こうしたちょっとした起伏をうまく利用できるかどうかに、城の防禦力がかかってくる。
問題は城の性格だ。大平クラスの勢力が、独力でこれだけの城を築いて保持できたとは正直、考えにくい。地形の取り方や規模・構造から見るなら、室町後期から戦国初期にかけての争乱の中で築かれた、陣所と考えるのが妥当だろう。大平氏は、そうした陣所の跡地を吉良氏に命じられて管理していたのではあるまいか。使わなくなった軍事施設を放置すると、不逞の輩が悪用しかねないからだ。
いずれにせよ、奥沢城は23区の中に遺された貴重な城郭遺構なのである。
[参考図書] 戦国武将たちの決断や戦いの実相を知りたい方は、西股総生著『戦国武将の現場感覚』をどうぞ(KAWADE夢文庫)。