三菱重工業は2023年2月7日、連結子会社の三菱航空機が取り組んでいた「三菱スペースジェット(旧MRJ)」の開発事業から撤退すると発表した。
同社が、国産リージョナルジェット機の事業化を決定し、三菱航空機を設立したのは、2008年である。
三菱航空機は、最初の顧客となる予定だった全日本空輸への機体の納入を2013年に始めるはずだった。
しかし、2009年に設計変更を理由に納入延期すると、その後も検査態勢の不備や試験機の完成遅れなどで6度の納期延期を繰り返した。
三菱重工業が約1兆円の巨費を投じ、経済産業省も約500億円の国費を投入し開発を支援した、国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された。
実際には2020年10月30日に三菱スペースジェット事業は打ち切られていた。
三菱重工は同日、三菱スペースジェットの開発活動は「いったん立ち止まる」と発表した。
筆者は、事業打ち切りの主要な要因は2つあると考える。
一つは採算が取れないことである。
2019年10月31日に地域航空会社3社を持つ米トランス・ステーツ・ホールディングス(TSH)が100機購入の契約を解消したのである。
TSHが契約解消する前の契約総数は387機であった。これで契約総数287機となった。
2007年時点の報道では採算ラインは350機、利益確保には600機の生産が必要とのことであった(出典:J-CASTニュース 2007.6.28)。
TSHが契約を解消した理由は、米国の労使協定「スコープ・クローズ」を既契約機では満たせないためであった。
契約当時、MRJは標準座席数が88席の「MRJ90」と、76席の「MRJ70」の2機種構成で、TSHはMRJ90を発注していた。
両社が契約を締結した時点では、リージョナル機の座席数(最大76席)や最大離陸重量(39トン)を制限する米国の労使協定「スコープ・クローズ」が将来緩和され、MRJ90(標準座席数88、最大離陸重量43トン)が運航できることを想定していた。
しかし、協定は現時点でも緩和されておらず、三菱航空機が協定をクリアする機体を製造できていないことから、契約解消に至った。
三菱側の「スコープ・クローズ」に対する見通しの甘さがうかがえる。
もう一つの事業打ち切りの要因は、型式証明の壁である。
MRJプロジェクトの納入延期のほとんどが型式証明の取得手続きに関わるものだった。
事業凍結への決定打となった大幅な5回目の遅延も、型式証明を得るための大規模な設計変更が理由である。
型式証明とは、民間航空機を対象としたもので、機体の設計が安全性基準に適合することを国が審査・確認する制度である。
安全性基準に適合すると判断した場合に限り、その型式に対して国が適合証明書を発行する。
三菱航空機のエンジニアらは「国内初のジェット旅客機とあって基準の解釈や、どうすれば基準をクリアしたことになるのかが分からず、戸惑い続けた」(三菱航空機の元事業開発担当者)。
機体強度や電気系統、耐火性能などを立証すべく試行錯誤を続けたが、「審査に耐えられない」と設計変更をたびたび余儀なくされた。
2016年秋以降はカナダのボンバルディアや米ボーイングのエンジニアらを次々と採用した。
しかし、それでもなお基準に適合していない不備があちこちで見つかり、証明作業の無限地獄に陥った(出典:日経ビジネス「国産ジェットの夢を阻んだ「型式証明」の壁 責任は三菱重工だけか」2023.2.7)。
また、型式証明の取得にこだわれば、今後数年にわたり年1000億円前後の出費が必要になる可能性があったと報道されている。
上記のとおり、経済産業省が全面支援し、三菱重工が巨費を投じた国産初の「日の丸ジェット旅客機」の開発は、一機も納入されることなく 開発が中止された。
一方、8人乗りのプライベートジェットで単純比較はできないが、自動車メーカーのホンダがプライベートジェットであるホンダジェットの製品化に成功した。
重工メーカーが失敗し、自動車メーカーが成功した航空機開発、なぜこのような結果になったのであろうか。両者を比較して教訓を見つけてみたい。
以下、初めに三菱スペースジェット開発の経緯について述べ、次に三菱重工によるスペースジェット事業失敗の総括について述べ、最後に三菱スペースジェットの失敗とホンダジェットの成功について述べてみたい。