政府の植民地政策に便乗する形で国外へ

――仏教は、北海道開拓、日清戦争・日露戦争、それらに伴う植民地政策にも関わっていきました。

鵜飼氏:明治以降の日本は領土拡大の必要に迫られます。欧米列強に脅かされ、自衛のための領土拡大とも言えなくはないですが、人口が急激に増え、生産力(農地)を確保する側面も大きかった。

 仏教界もそう。国内だけでは、布教拡大に限界が生じてきていました。なぜなら、大日本帝国憲法で「信教の自由」が認められ、キリスト教や新宗教が続々と根を下ろし始めましたから。

 政府の植民地政策に便乗する形で、仏教界は外に目を向けます。その嚆矢が北海道開拓でした。東北や北陸を中心とする内地から人々がムラ単位で入植していきましたが、その際に、寺院や神社が一緒にくっついて行きました。

 宗教施設は、移民のコミュニティを強化する役割であり、故郷の象徴。また寺は、開拓中に死んでいったムラ人の弔いという重要な機能も担ったのです。

 日清戦争以降の大陸侵略もそうです。「戦死者の弔い」を突破口にしつつ、死におびえる兵士の心の拠り所として「従軍布教」に力を入れます。そして植民地の最前線に寺を建立し始めます。これを「大陸布教」「大陸開教」などと言い、浄土真宗本願寺派では、極東全体で400近い寺院を建立しています。

――戦争への仏教界の関与はさらにエスカレートしていきます。中でも転機はどこにあったのでしょうか。

鵜飼氏:やはり、日中戦争だと思います。より主体的に戦争に関わるべく、戦時協力のための宗教連合組織もできました。そして、これまでの従軍布教、従軍僧による戦闘への参加、慰問、戦死者の弔いなどの規模は、従前の戦争の比ではないほど拡大します。

 前線における布教や弔いは、兵士の士気を高め、死をも厭わず戦う決死隊を生む原動力にもなりました。死の恐怖を取り除き、「お国のために戦って死んでいくことこそが極楽往生への道だ」と従軍僧が説いたからです。