しかしながら、米国の核抑止力へ依存しながら、米国の核兵器を「持ち込ませず」というのは論理的整合性がない。
核兵器で守ってくれ、しかし、日本の領土には核兵器を持ち込まないでくれと言われた米国は、「何を言っているのだ、日本はバーデン・シェアリング(burden sharing)(同盟国間での責任分担)という言葉を知らないのか」と、突き放すであろうことが容易に想像できる。
また、米国は自国の作戦行動の自由を制約されることを極端に嫌う。従って、当時は密約が、日米両国が受け入れられる唯一の選択肢であったのであろう。
ところで、わが国を取り巻く戦略環境は1960年安保条約改定時よりも厳しくなっている。
北朝鮮は、核兵器に加えて生物・化学兵器も保有しているとみられ、弾道ミサイルの開発・配備も進めている。
また中国も、核戦力を含む軍事力の近代化を積極的に進めている。そして日本は、これら両国の核弾頭搭載可能な弾道ミサイルの射程に収められている。
米国は自国の領土が攻撃される危険を冒してまで、日本を守るために中国に核の傘を適用するであろうかという疑念がわいてくる。
疑念を晴らすためには、米国にとっての日本の戦略的価値を高め続ける努力が必要となるであろう。
例えば、NATO(北大西洋条約機構)は冷戦を通じてソ連軍に対して圧倒的に劣勢だった。
ソ連軍による侵攻を回避するため、米国の航空機搭載核爆弾や核弾頭搭載が可能なミサイルを自分の国に配備させ、米国の核抑止力を目に見える形で連動(カプリング)させた。
日本も、米国の核兵器の国内配備を検討すべき時期に来ていると筆者は考える。
政府は、米国の核兵器の国内配備に対する国民の理解を得るための広報活動を推進しなければならない。