壇之浦の古戦場跡の源義経像 写真/アフロ

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(11)9月17日、頼朝、奇跡のV字回復
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66899
鎌倉殿への道(12)9月19日、頼朝軍、一気にふくれあがる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66900
鎌倉殿への道(13)10月7日、頼朝、鎌倉に入る 
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67220
鎌倉殿への道(14)10月20日、富士川の合戦
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67342

平家打倒に「待った」がかかる

 何が何だかわからないままに、平家軍の「撃退」に成功した頼朝軍は、大いに意気があがった。頼朝本人も、大いに盛り上がった。

「よし、このまま逃げる平家を追撃して、一気に京に攻め上るぞ!」と。

 ところが、千葉常胤、上総介広常、三浦義澄らの幹部連から「待った」がかかった。

「関東にはまだ、頼朝様に従わない者も大勢おり、いま西に向かえば背後を衝かれます。とくに常陸の佐竹は強敵です。まず佐竹らを討ち果たして関東を固め、それから京に攻め上るべきです」と。

 頼朝は、この進言を受けいれて鎌倉に引き返すことにした。幹部連の言い分が、戦略として理にかなっていたからだ。だが、それ以上に、幹部連には切実な理由があった。彼らが頼朝の叛乱に参加したのは、自分たちの頭を押さえつけてきた平家方の者を排除し、彼らに奪われた所領や、侵害された利権を取り戻すためだったからである。

鶴岡八幡宮の東隣にある大倉幕府跡。鎌倉に入った頼朝は、この場所に屋敷を建てることに決め、従った武士たちも周囲に屋敷を構えるようになった。 撮影/西股 総生

 千葉常胤が佐竹を脅威だと名指ししたのも、佐竹に荘園の利権を奪われていたからだ。彼らにしてみれば、佐竹なりの平家方を討ち果たして利権を回復しなければ、叛乱に参加した意味がない。三浦にしても、新しい所領の一つももらわねば、割が合わないのだ。

千葉氏の亥鼻台公園に建つ千葉常胤像。頼朝の復活に大きな力となった常胤は、草創期の鎌倉幕府における重鎮となった。撮影/西股 総生

 このときの転進は、結果的に歴史を変える重大な決断となった。もし、常胤や義澄の進言がなく、頼朝がそのまま京に攻めのぼっていたとしたら、鎌倉幕府は成立していなかっただろう。

母違いの弟・義経と初対面

 もう一つ、重要な出会いがあった。「富士川合戦」の翌日、黄瀬川で宿陣した頼朝のもとに、一人の小柄な若者が訪ねてきたのだ。頼朝の弟、源九郎義経である。

 頼朝と義経は、母がちがう。平治の乱のとき、義経は生まれて数ヶ月の乳呑み児で、牛若と呼ばれていた。乱後すぐに母(常磐御前)から離されて鞍馬寺に預けられたから、頼朝とは黄瀬川ではじめて対面したはずである。現在のわれわれがイメージするような兄弟の情とはちがう世界で、二人が生きてきたことを覚えておいてほしい。

 義経の生い立ちについては、よくわかっていない。しばらく鞍馬寺で小僧として育てられたが、やがて誰の手も借りずに、自ら頭に烏帽子を載せて元服し、義経と名乗ると、寺を出て奥州藤原氏のもとに身を寄せた。

鞍馬寺の仁王門 写真/アフロ

 藤原秀衡は、義経が何者かを知ったうえで迎え入れてくれた。この少年は将来、何かの政治的手駒として使えるかもしれない、と踏んだのだ。義経は、奥州の地をのびのびと駆け回りながら、俊敏で知恵の回る青年に育っていった。

中尊寺金色堂 写真/アフロ

 そうこうしているうちに、頼朝が関東で挙兵したことを知り、いても立ってもいられずに駆けつけたのだ。ときに義経21歳。肉親の情を知らずに育ってきた青年は、はじめて会う実の兄に感激し、力を合わせて平家を討ち果たそうと固く誓ったのである。

 2日後の23日、箱根を越えて相模に戻った頼朝のもとに、大庭景親が連行されてきた。すでに伊東祐親も身柄を拘束されている。頼朝は論功行賞として、ここまで功のあった者らに、景親や祐親の所領を分け与えた上で、景親を斬った。

※次回は11月5日に掲載予定。頼朝軍は常陸に佐竹氏を攻めます。