厳島神社の平清盛像 写真/アフロ

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(11)9月17日、頼朝、奇跡のV字回復
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66899
鎌倉殿への道(12)9月19日、頼朝軍、一気にふくれあがる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66900
鎌倉殿への道(13)10月7日、頼朝、鎌倉に入る 
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67220

平家、ようやく動き出す

 都の平家とて、武門の家である。関東の叛乱を、指をくわえてながめていたわけでは決してない。大庭景親から石橋山合戦の第一報が届いた9月2日には、清盛はただちに討伐軍を派遣するよう、命じた。ところが・・・。

 占ってみたら何日は日取りが悪い、何日は誰それの命日だという話が出て、出陣の日取りがなかなか決まらない。今でいうなら、結婚式や会社の重要な行事の日は仏滅を避けるようなものだが、とりわけ合戦の場では、人智を越えた偶然がしばしば決定的に作用するから、験担ぎは大切ではある。

 とはいえ、このときの平家軍は明らかにモタモタしていた。平維盛(これもり)、忠度(ただのり)の率いる討伐軍が出発したのは、9月29日になってからなのである。

歌川芳虎『大日本六十余将』の平維盛(左)と、右田年英の平忠度

 清盛が討伐軍派遣を決めたとき、安房に上陸した頼朝は仲間集めをはじめたばかりだったが、維盛らが出発したときには、大軍を従えて武蔵に入っていた。そう考えると、一月近い時間の空費は致命的だった、と言うしかない。

 平家軍は、各地で兵を集めながら東海道を下ったが、募兵活動ははかばかしくなかった。これまで平家一強の時代は、うまく政権に取り入った者だけが、うまい汁を吸える世の中であった。だから、地方の武士たちは、忍の一字で平家方に頭を下げて、自分の所領を守ってきた。

 でも、今はちがう。各地で反平家の狼煙があがっているのだ。そんな中で、進んで平家に忠節を示し、手柄を立てて政権に認めてもらおう、と考える者は少なかった。どうにも意気の上がらない平家軍は、それでも10月20日に富士川の西岸に着陣した。

現在の富士川

 一方の頼朝は、13日に平家軍が駿河に入ったという報せを受けるや、16日には鎌倉を出陣して、20日には富士川の東に着陣している。頼朝は頼朝で鶴岡に祈祷を命じたり、相模の主だった神社に奉幣したりしているのだが、それでも平家方とのスピード感の違いは歴然である。

 同じ頃、武田信義をはじめとした甲斐源氏の一党も、独自に反平家の兵を挙げて、駿河に向けて南下していた。頼朝は、北条時政らを甲斐源氏軍につかわして共同作戦を提案していたが、プライドの高い彼らは頼朝の下に属するのをよしとせず、独自に動いていた。

菊池容斎『前賢故実』より、武田信義

 ところで、現在の富士川は富士市街地の西の方で駿河湾に注いでいるが、当時は下流で大きく蛇行して、現在の市街地(工業地帯となっているあたり)を流れ、河口の一帯には潟湖や湿地帯が広がっていた。士気も上がらず兵力も不充分な平家軍は、そんな富士川西岸の低地に陣を張り、結果として北東の高台に頼朝軍、北西の高台に甲斐源氏軍を見上げるかっこうになってしまった。

 20日の夜、武田信義は抜け駆けを企て、夜襲をかけようとして平家軍に接近していった。このとき、沼地に羽を休めていた水鳥が、驚いて一斉に飛び立った。平家軍の幹部は大軍の包囲攻撃を受けたものと思い込み、そのまま退却してしまった。

 世に言う、富士川の合戦である。

 ※次回は10月21日に掲載予定