銀の流出を抑制するのが「鎖国」化の狙い

 このように、銀の産出量の減少に伴い、日本の対外貿易は縮小されました。日本の「鎖国」化は、キリスト教布教を名目に日本を植民地化することを狙っていた西欧諸国を排除するという目的もありましたが、幕府が貿易を管理し、銀の流出を防止するというのも大きな狙いでした。第一、各地の大名が勝手に外国と貿易をし始めると、幕府を脅かす力をつけることにもなりかねません。それは絶対に避けなければならない事態でした。

 このような状況のもと、日本の海禁政策は進んでいきました。

 一方、同じ海禁政策と言っても、中国のそれはずいぶん違っていました。中国では明朝や清朝が管理する正式な貿易以外に、実は民間の貿易もかなり発展していたのです。

 スウェーデン人の歴史家リサ・ヘルマンの研究によれば、海禁政策をとっていた当時の中国政府は、広州に4〜5名の通訳しか置いていなかったそうです。中国人商人と外国人商人は、この政府から派遣された通訳を介してコミュニケーションをとらなければなりませんでした。しかし、これでははっきりいって人数が足りません。唯一の外国貿易港である広州の貿易量が増大すると、役人たちはアシスタントを雇うほかありませんでした。

「外国語を話せる中国商人はほとんどいなかったので、英語ないしポルトガル語を話すことができる人を雇っていた。だから、フランス人、オランダ人、デンマーク人は、このどちらかの言語を話す必要があった」というイギリス人の記録もあります。通訳を介すると、商売の条件などが役人に筒抜けになります。中国の商人も、ヨーロッパの商人も、本心ではこの通訳の介在を喜んではいませんでした。

 そのうちに、中国の役人の干渉を避けるために、中国商人とヨーロッパ商人は共通の「言語」を創出するようになりました。これは、中国語やマレー語、ポルトガル語、英語などを合成した、人工的な言語でした。この言語でのコミュニケーションなら通訳は必要ありません

 商人たちは自力で国家の干渉を受けない言語をつくり、独自の貿易ネットワークを形成し、ビジネスを続けていったのです。

 ヨーロッパ人は、このような工夫をして中国との自由な貿易を確保しました。しかし、同じような工夫は日本に対してはしていません。それは、ヨーロッパ人にとって、中国は日本よりはるかに重要な取引相手だったからです。貿易をめぐって、二国の海禁の実情は大きく違っていたのです。

 日本は、しょせん極東の島国でした。一方、中国は世界一豊かな国であり、ヨーロッパ人は何としてでも中国での貿易で利益を得ようとしました。西欧諸国の中では唯一、日本との独占的貿易を続けていたオランダにとっても、この商売はそれほど利益の出るものではなかったようです。

 われわれ日本人は、「鎖国」という対外政策を非常に重要な意味を持つものとして教わってきました。そして、対外的に閉ざされていたこの時代に、西欧諸国で唯一貿易を続けていたオランダの関係を非常に重要なものと捉えがちです。

 しかしそもそも徳川幕府が対外貿易を縮小させる方向に舵を切っていましたし、「四つの口」の存在が示すように、必ずしも外国に対して閉ざされていたわけではありません。そして、出島で日本と接点を維持し続けたオランダにとっては、実は中国のほうがより大事な貿易相手でした。

 江戸幕府による鎖国と、明朝・清朝の海禁政策。一見、極めて似た政策でしたが、その狙いはずいぶん違うものでした。そこには、当時の日本と中国の「国力の差」が反映されていたと言うべきなのかもしれません。