(乃至 政彦:歴史家)
(1)関ヶ原合戦を引き起こした「直江状」は本物なのか?
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62031)
(2)石田三成は関ヶ原で笹尾山にはいなかったって本当?
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62057)
(3)石田三成に徳川家臣・本多忠勝はなぜ頭を下げたのか
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62093)
庚子争乱を起こした人物
いわゆる関ヶ原の戦い(庚子争乱)は、徳川家康が会津の上杉景勝を討伐するため、下向したことにより始まった。毛利輝元を公儀の盟主とする西軍が大坂城を保護、上方を押さえて、家康率いる東軍の撃滅に動いたのである。
ところで会津討伐の契機は、家康の野望にあると見るのが現在の主流で、景勝が謀反を企んでいたとする論考はほとんど見られない。
わたしはこれに疑問を抱いていた。謀反や反乱を企てる者は、その動機をできる限り明らかにすることなく動くのであり、しかも最後まで理由を明確にしない例が多い。それどころか現代の目から見て、どのような必然的動機があって反逆したのか不明なものばかりだ。例えば、松永久秀や惟任光秀の挙兵理由は、いまだによくわかっていない。
豊臣秀吉と争った北条氏政にしても、秀吉の陰謀にハメられたという説が立論されるぐらい無謀な戦いに直面している。しかし氏政にも勝利のシナリオが無かったわけではなく、その敗北は必定ではなかった。だから、一門全員で土下座してでも合戦を回避すべきだったという後付けの批判は適切ではない。日本史上、公権力と争った側が勝利した例はいくつもある。
例えば、赤坂城の楠木正成、永禄の変の三好義継、実父武田信虎を追放した武田信玄など、ありえない謀反(勝ち目がない、その後の展望がない、大義が弱いなど)を起こして勝者となった者がたくさんいるのだ。
そして上杉景勝である。景勝の実父・長尾政景は、越後守護代になった上杉謙信を相手取り、戦争を決断した。その結果は全面的な降伏に終わったが、景勝には反骨の血脈が生きている。武田と北条を味方につけた義兄との争いや、織田信長相手の徹底抗戦と、滅亡覚悟の決断を繰り返してきた。
義父の謙信からしてそうである。体制がほぼ盤石と化していた相模の北条政権に立ち向かい、鎌倉府を復権させて、関東情勢を一変させようとした。東国の長尾一族には大願のため、天下を大乱に引き入れて動じない大胆さがある。
景勝に何らかの展望があった可能性も、史料批判がある程度固まった今、一度は考えてみるべきだろう。
上杉景勝の反意
上杉景勝が大乱を企んでいただろうことは、ほぼ疑いないとわたしは見ている。それが自衛のためか、何か野心があって進めたものかは確言できないが、関ヶ原以前から着々と戦争準備を進めていたことは、当時の書状に読み取れる。世間から注目される本拠の神指城こそ、平和的な都市作りを進めていたが、北側の国境では長期戦に備える普請を進めていた。
武具の収集、武勇自慢の牢人登用、交通網の整備など、戦時体制の強化を推進していた事実があり、これで天下泰平を望んでいたとするのは、いささか厳しいものがある。本当に家康から難癖をつけられていて、誤解を解きたいと思うなら、それなりに申し開きのしようがあったはずだ。だが、景勝は自分に謀反の疑いがあると訴える者を糺明せよ、秋には上洛すると強く主張しており、その陰で家臣たちには春夏のうちに国境の防備を固めろと伝えている。
おそらく景勝には、彼なりのシナリオがあったのだろう。それがどのようなものであったかを史料のテキストに求めることは、ほかの謀反同様、とても難しい。
だが、その腹中には、私的な欲望や臆病な警戒心ではない、何らかの展望があったのではないか。これは庚子争乱に西軍が敗れたあと、徳川の新体制をいさぎよく受け入れていることからも想像できよう。ここで、景勝の人格にその手がかりを求めてみよう。