(乃至 政彦:歴史家)
関ヶ原の主役とも言える石田三成と徳川家康。不仲であったと言われるが、同時代の史料を見る限り、ふたりの間にそれほど深刻な対立は感じられない。それどころか、どちらも豊臣公儀の維持のため尽力しており、ときに相互協力をも惜しまなかった様子がある。合戦が起こった経緯、徳川家臣・本多忠勝が敗者・三成にとった行動を辿れば、三成のひととなりが見えてくる。 (JBpress)
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石田三成と徳川家康の関係
石田三成と徳川家康は不仲であったと言われている。
そうした印象に基づいて両者の動きを見ていくと、関ヶ原合戦は、三成の主家への忠心と、老獪な家康の野心がぶつかったもののように見えてくる。
しかし、同時代の史料を見る限り、ふたりの間にそれほど深刻な対立は感じられない。それどころか、どちらも豊臣公儀の維持のため尽力しており、ときに相互協力をも惜しまなかった様子があるようだ。
もちろん過去には、三成は家康に面と向かって非難することもあった。たとえば、慶長4年(1599)正月、「家康が亡き太閤・秀吉の遺言に背いて身勝手な婚姻を進めている」ということで、毛利輝元を筆頭に四大老・五奉行らが家康を糾弾する事件が起きた。これに同調する三成の舌鋒は鋭かった。
「[あなた徳川家康は]国家の統治にあたってひどく権力を我がものにしており、また天下の支配権を獲得する魂胆の明白な兆候を示している」と、難詰したのである(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。
これは、三成個人の憎悪が原因ではなく、大老と奉行の総意として動いたものだった。その証拠に、家康の潔白が晴れてからは、三成も反省したらしい。家康およびその直臣たちも三成個人を恨んではいないようだった。
同年閏3月、三成が豊臣大名らの訴訟騒動に追い込まれたとき、徳川家康が厳しい顔でこれに介入した(いわゆる「石田三成襲撃事件」。実際は訴訟騒動)。そして三成を居城の佐和山へ蟄居させ、奉行職を引退させた。しかも家康は、訴訟側の大名に三成の「子息」を人質に取ったと誇らしげな手紙を書き送っている。これをふたりの権力闘争の結果と評価するのが一般的だが、よく見るとそうではないらしい。
なぜなら家康も、自分の息子を「家康子人質」として佐和山の三成のもとへ送っているのである(『浅野家文書』110号および『多聞院日記』閏3月11日条)。
おそらく家康は、訴訟大名たちの怒りが収まらないので、自分が三成を圧迫してやったというポーズを取りつつ、三成の気持ちにも同情して、こっそりこのような対応を行い、双方の気持ちを宥めようとしたのだろう。
トラブル続きの豊臣公儀
豊臣公儀ではその後もトラブルが重なる。同年秋、前田利家の跡を継いだ加賀の前田利長に謀反の噂が立ったのだ。
家康は利長が挙兵しないよう慎重に動く。
その際に家臣の柴田左近を佐和山城に派遣して、三成に問題解決への協力を要請した。かくして同年11月、家康の指示で、大谷吉継の養子・吉治と石田三成の内衆1000余が越前に配備された。その後、噂は誤解であることが判明。すべては沙汰止みとなり、大きな紛争にはならなかった。関ヶ原合戦が起こるのは翌年の9月だが、この頃まで両者は不仲でもなんでもなかったようだ。
ちなみに、この少し前、大野治長、浅野長政らによる家康暗殺計画があった。しかし、これを事前に察知した三成が「ひそかに書面で[このことを]家康に知らせた」ので(『看羊録』)、暗殺計画は未遂に終わった。
ドラマなど創作物の三成は、家康暗殺を企てることも多いが、事実はまっさかさまで、三成は家康を救っているのである。
ここまで三成に、打倒家康の一念など見られない。
そこにあるのは、個人的な好悪ではなく、先の私婚事件で三成が語った言葉から印象されるように、「天下」が私物化されることへの警戒心であり、つまりは私よりも公を重んじる公正無私の気持ちであっただろう。天下国家を語って、すこしも私のない人物で、それらを論理的に思考して、言葉として発することのできる政治家であり、戦略家であったのではないだろうか。