(乃至 政彦:歴史家)
慶長5年(1600)9月15日に行われた関ヶ原合戦。この戦は上杉景勝の家宰である直江兼続が、徳川家康に対して叩きつけた「直江状」によって引き起こされたとされる。しかし、直江状には原書がなく、その写しも書かれた時期によって内容が変化していることが見えてきた。本文を考察しながら「直江状」の内容及び真偽に迫る。(JBpress)
関ヶ原合戦の原因とされる書状
関ヶ原合戦を起こしたのは、直江状と言われている。
上杉景勝の家宰である直江兼続が、徳川家康に対して叩きつけた挑戦状である。
ただしよく知られている通り、直江状は原書が存在していない。いま伝わっているのはすべて写しなのである。このため、直江状は江戸時代に作られた文学的な作品であると見る作家や研究者が多い。もちろん逆に当時、兼続がほんとうに書いたものだという専門家もいる。
それで研究者たちが検証したところ、直江状の写しは、書かれた時期によって、内容が少しずつ変わっていっている様子が見えてきた。初期の写しは上杉家謀反の噂を聞いた徳川家康に「それは事実ではありません」と弁明する内容で、それがあとから往来物として挑発的に読み替えられていき、やがて「疑うならこちらまで来ればいい。お相手しますから」との追記が加えられることになったのである。
さて、直江状が実際にあったとして、それがもともとは上杉無罪を訴えるものだったとしたら、これを起点に勃発する関ヶ原合戦は徳川家康の強引さが巻き起こした事件ということになる。しかし、同時代の人々の記録を見ると、どうもそうではなく、上杉家は自ら挑発したということが伝えられている。これは家康の印象操作の可能性も疑われようが、それでは、景勝および兼続は、実際にどんな態度を取ったのだろうか。
本文の考察
その訳文や本文およびその考察は書店に並ぶ歴史書だけでなく、インターネットでも検索することができるので、ここでは略する。ただ、直江状というのは徳川家康に宛てられたものではない。当時、京都にいた兼続の友人である僧侶に宛てられた書状なのである。
そして同時代の京都の記録に、この僧侶と直江兼続が手紙を交わしていたことが伝えられている。直江状の実在を肯定する論者は、この記録がその証拠ではないかと見ている。しかし、これが実は謎を解く大きな鍵となるのだ。
この僧侶が兼続に送った書状というのも写しが残されている。直江状はこれに対する答書の形をとっている。
通説によると僧侶の書状は、徳川家康の意を受けて、兼続に難詰する内容とされている。しかしよく読み返すとそのようではない。少なくともこの書状を送った西笑承兌という僧侶は、威勢ある権力に屈して友人を売るタイプの人物ではない。
明国から豊臣秀吉に国書が送られたとき、西笑承兌は翻訳を担当したが、秀吉の重臣・小西行長は「この国書を直訳すると秀吉さまは必ずお怒りになる。だからよく忖度するように」と助言されたが、そんなことお構いなく直訳して、予想通り秀吉を激怒させている。朝鮮出兵が長期化したのもこれが原因である。
真実を真実と言って憚らない、融通の効かない学者だったのだ。もちろん家康に懐柔されて、兼続や上杉家を政治利用する陰謀に加担することも考えにくい。
それで、長文の西笑書状を見ると、これは詰問状ではなく、兼続の動きを穏便に諭そうとする内容の手紙である。そこでは「上方では景勝がなかなか上洛しないことで、上杉討伐がすぐにも決まりそうなので、早く対応するのがいいでしょう」ということが懇々と述べられ、風雲急を告げるの観があり、緊迫する調子が強く感じ取れる。西笑はそれほど兼続と上杉家を心配していたのだ。
それがなぜか直江状では、こうした親切な忠告の細々とした部分を、いちいち論破するものとなっている。上杉討伐を主導しようとする家康からの難詰に対するものなら、わからないでもないが、なぜここで友人を論破しようとするのか、これだと兼続がまるでただの阿呆である。
家康は、上杉景勝が謀反するという情報の実否を確かめさせるため、上杉家に使者を向かわせた。通説では、かれらが西笑の書状を持たせられたとある。それなら、兼続が直江状で友人を論破するのも理解できないこともない。だがしかし、この認識が大きな間違いなのだ。西笑書状は兼続へのプライベートな手紙である。対する家康が派遣したのは上杉家へのパブリックな公使である。
これを一緒くたにしてはならない。