史跡古河公方館(茨城県古河市)

(乃至 政彦:歴史家)

関東で年を越した謙信は、正月早々上野を平定。さらに一度降参したものの離反の姿勢を見せた下野に向かう。その間、北条の援軍は関白・近衛前久らのいる下総の古河城を攻め落とそうとしていた。謙信はこの窮地を乗り越えることができるのか?(JBpress)

翌年も繰り返された佐野昌綱の抵抗

 永禄5年(1562)、上杉輝虎(後の謙信)は関東で越年した。正月になると、武田信玄の軍勢が西上野から接近してきた。輝虎はこれを安中の地で迎撃。そして翌月には北条陣営の同国館林(たてばやし)城を、同国の金山城主・横瀬成繁(よこせなるしげ)や小泉城主・富岡重朝らと共に攻めて、城主の赤井文六(ぶんろく)を降伏させた。まだ少年の文六は「なかなかあわれなる様体」で武蔵忍城へと逃亡したという。

 ここに上野を安定化させた輝虎は、東へ出馬する。少し前、上杉陣営に降参した下野の唐沢山城主・佐野昌綱が、下総の関宿城主・簗田晴助のもとに預けていた人質を取り返し、またもや離反の姿勢を明らかにしたからである。しかし今度は昌綱の備えも固く、頑強に抵抗されたため、輝虎も苦戦した。

 さらに北条の援軍が北上していた。昌綱が輝虎を引き受けている間に、下総の古河城と関宿城を攻めるつもりでいるようだった。そこには関白・近衛前久と古河公方・足利藤氏、前関東管領・上杉憲政がいた。かれらを生け捕りにされたら、上杉陣営はおしまいである。

古河城の危機ふたたび

 古河城は、前年冬にも似た窮地に追いやられたことがある。藤氏が単独での逃亡を企てて大変な騒ぎになったのだ。このとき輝虎は、周囲がこれを抑止している間に、唐沢山城を制圧して、最悪の事態を免れた。だが今回の唐沢山城は手堅かった。もし藤氏が「まだ佐野を降参させられないだと? 北条軍がこちらに迫っているのに、予の身が危なくなるではないか」と主張したら、抗弁できない有り様だった。

 これで公方が逃亡したら、輝虎らが関東に築いた新体制は、一気に瓦解する。前久も憲政も関東での求心力はほとんどないからだ。輝虎は管領代の職を得た身が、関東の外側である越後から援軍に駆けつけた余所者に過ぎない。

 それに、前久も公方の世話を焼くのに疲れていた。前久・藤氏・憲政の関係は必ずしも良好ではなかった。

 こうした状況を鑑みれば、輝虎・前久・憲政らは「もはや公方を説得するのは難しい」と判断せざるを得なかっただろう。輝虎は3月上旬に前久と憲政を陣中へ迎え入れると、そのまま上野の厩橋城へ帰陣した。そして4月1日までに越後への帰国を開始した。

輝虎退陣の衝撃

 輝虎の退陣を聞いた北条氏康の次男・氏照は、佐野昌綱の弟に「近衛殿が厩橋城へ引き取られたそうだが、その理由を知りたい」と尋ねた。昌綱が居城の防衛に成功したからと言って、輝虎があっさり古河城を見放すのが解せなかったのだろう。

 原因は関白と公方の確執にあった。人臣最高位にあるはずの前久にすれば、たかだか地方でニワカ公方に取り立てられただけの藤氏に振り回されるなど、割りに合わない。そんな現状を憂えた前久は、輝虎に「もう越後に帰らせてくれ。藤氏のことなんかもう知らない」と訴えたのだろう。第一次越相模大戦は、ここで中途半端な結末を迎えた。

 もしこの争乱に勝者がいるとすれば、はじめ北条軍に滅亡寸前へ追い詰められていた里見義堯、最後に自主独立を保った佐野昌綱、そして主家の扇谷上杉氏を復活させた太田資正らであろう。上杉・北条・武田は、かれらに晴れ舞台を用意しただけの敗者も同然であった。