石田三成陣跡 笹尾山(岐阜県関ケ原町)

(乃至 政彦:歴史家)

慶長5年(1600)9月15日に行われた関ヶ原合戦。最新の研究では、関ヶ原合戦における石田三成の布陣地が笹尾山ではないことが見えている。小早川秀秋が陣を布陣したという松尾山のすぐ近くにある「自害が峰」に布陣した可能性が急浮上した。では笹尾山布陣という定説が創生されたのか、その経緯をみていくことにしよう。(JBpress)

笹尾山布陣という定説

 関ヶ原合戦をめぐる研究の進展具合は、わたしがいうのもおかしいが、かなり異常である。まさに日進月歩で、ありとあらゆる説が塗り替えられており、主戦場と総大将だけでなく、決戦があったときの政治的経緯と軍事的経緯も従来とまったく異なる様子が浮かび上がってきた。

 最新の研究では、関ヶ原合戦における石田三成の布陣地が笹尾山ではないことが見えている。当時だけでなく江戸時代の文献を見渡しても、三成が笹尾山に布陣したとする記録は、良質の史料は疎か通俗本にもないのだ。少なくとも自分には探し出せなかった。

 関ヶ原関連の現地を巡り、文献を博捜する高橋陽介氏は、関ヶ原に従軍した戸田氏鉄の記録『戸田左門覚書』に注目した。そこには「治部少(=三成)本陣は松尾山の下、自害か岡と云所に陣す」とある。

 同書によると、石田三成は「自害が岡」に布陣すると言い出したという。すると、現地の者から「ここは地名が不吉だからやめましょう」と意見されたとも記述されている。しかし三成は意見を容れなかった。このやりとりはおそらく事実だろう。「自害か岡」は、現在の「自害峰」(関ケ原町大字藤下)で、笹尾山より2〜3キロメートルほど南にある。すぐ近くには若宮八幡宮がある。そしてここは小早川秀秋が布陣したという松尾山の目の前だ。

 高橋氏は論文『城』(東海古城研究会機関誌)の第224号に掲載された論文「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地「自害峰」遺構に関する調査報告」において、自身の見解を説明した。説得力ある内容だった。

 なお、三成布陣の地が笹尾山ではないとするのは、かれだけではない。細部では高橋氏と異なるが、別府大学の白峰旬教授も笹尾山布陣に否定的である(白峰旬「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈 : なぜ大谷吉継だけが戦死したのか」/『史学論叢』46号)。

 これで史実の石田三成は、松尾山のすぐ近くにある「自害が峰」に布陣した可能性が急浮上した。ここから先は、従来の定説がどのように創生されたのかを確認し、明確な批判を立てていくことが課題のひとつとなるだろう。そうしなければ、いまや日本人の大半が信じている笹尾山布陣のイメージを拭い去ることは難しい。そこで今回、笹尾山布陣という定説が創生される経緯をみていくこととしたい。

通説が覆る理由

 なぜ続々と通説が覆っているのか。それは戦後日本の歴史学に、中近世の戦争を研究することへの忌避があり、アカデミックの場でほとんど論じられていなかったためである。戦前はこの合戦の内容を、江戸時代に書かれたフィクションをベースに進めていたが、これを近年の歴史学で深化した史料批判の手法を通してみると、かなり怪しいことが見えてきた。後世史料(二次史料)よりも、同時代史料(一次史料)に重点を置いて再検証すると、前者が脚色もりもりの創作物語であることが明らかになるのは、もはや研究者のみならず歴史愛好家の間でも常識と化している。

 長らくアカデミックな学術誌に関ヶ原合戦の実態を追及する本格的論考はほとんどなかった。有名な布陣図に対して疑義を呈していたのも歴史学者ではなく、軍事ライターたちであった。

 日本の古戦場跡を訪ね歩く人の多くは、そこに合戦布陣図の看板が立てられているのを見たことがあるだろう。どれも前世紀の作品であると思う。また、昭和や平成初期の歴史ビジュアル誌に、これらと同様のイラストが掲載されているのを見たことがあるだろう。多くは戦前の研究(推定)がベースとなっており、特に中世のものはどれも仮説の域を出ないものである。

 これらは公開直後から絶対に動くことのない定説とされ、無批判に扱われてきた。しかし、これから歴史に関心を寄せる人は、よく心してほしい。歴史は常にアップデートされる可能性がある。そこに不変の定説というものはないのだ。