神谷道一が笹尾山と推定した

 この謎については同書の終わりに「附録」として掲載される「関原合戦志附録・関原陣地考証」を読み進めると、推測を立てることができる。この22ページで、三成の布陣地が検証されているのだ。

 こちらも少し長いが現代語訳を行おう。

「『関ヶ原始末記』に、〈石田三成は不破関ヶ原に出張し、小関の北の山際に陣を取った云々、その左の山際に、織田信高と豊臣秀頼の黄母衣衆が横隊をなして後方に控えていた〉とあり、三成陣所の西北にある北国街道の山側に陣していたのである。しかしその場所は詳らかではない(【原文】関ヶ原始末記ニ〈石田三成不破関ケ原ニ出張シ小関ノ北ノ山際ニ陣ヲ取ル云々、其左ノ山際ニ織田小洞信高大坂黄母衣衆段々ニ控タリ〉トアリテ三成陣所ノ西北ナル北国街道ノ山側ニ陣セシモノナルベシ、然レモ其陣地ハ詳カナラズ)」

 ここに引用される『関ヶ原始末記』(1656年)の原文を見ると、たしかに「不破関原へ出張し、小関の宿の北の山際に陣を取る」とある。どうやら神谷は、この「小関の宿の北の山」をそれまで自分の中に蓄積されたイメージに基づいて「笹尾山」と比定したらしい。神谷の中には、関ヶ原は石田三成と徳川家康にとって天下分け目の一大決戦だったという史観があった。現在ではこの定説に疑義が呈されているが、明治時代は歴史は文学的物語として解釈するものだという思考が強く、ここから離れることは困難だった。

 ただし本文で、すでに三成布陣地を笹尾山と特定しているにも関わらず、こちらの附録ではなぜか、この「小関の宿の北の山」を笹尾山に結びつけていない。

 ここから考えられることは、神谷は附録を先に書き進め、あとから本文を書き上げたということである。だから、本文で三成布陣地を笹尾山と確言しておきながら、附録で「小関の北の山」がどこなのかを不明としているのである。

 こうした論理と根拠を繋ぎ合わせる説明が不十分な形で編集され、製本化されたのが『関原合戦図志』なのであった。このため、過去の軍記に馴染みの薄い読者が本文に目を通すと、笹尾山布陣はまるで示すまでもない既成の事実として、古くから確定しているように誤読されるものとなった。

 ここまでなら、神谷の仮説もやがて忘れ去られただろう。しかしほどなく関ヶ原を熱心に研究する機関が大著を集成させた。その機関は歴史学の専門チームではないものの、巨大な国家権威を有していた。しかもかれらは神谷の著作に依拠して、ほぼそのままの布陣図を掲載した。この布陣図は、それから約100年以上、定説とされることになった。作製チームは、旧日本軍の参謀本部であった。

 参謀本部が編纂した『日本戦史 関原役』(1911年)の布陣図は、その後、100年以上もの間、関ヶ原合戦を扱う書籍で流用され続けることになった。同図はこうして拡散された。本書が刊行されたとき、神谷道一はすでに故人と化していたが、これを見たら誰よりも神谷本人が驚いただろう。

 後年、この布陣図を受け入れた歴史愛好家たちは、合戦時の石田三成や大谷吉継らの心境を語らうことで、歴史語りを断絶させることなく、その本義を蘇生・延命させてきた。ここから作られた小説などの創作物語を愛する人々も現地を訪ね、笹尾山の地に魂を宿らせていった。ここに歴史は一個の魂を得ていった。

聖地と史蹟のはざま

 ところで『関ヶ原始末記』の記述を見ると、神谷の位置比定はやはり相当な無理がある。

 まず同書の石田三成は、西の松尾山に現れた小早川秀秋に裏切りの疑いがあると判断した。このため、北側に現れた徳川家康を無視して、大垣城を出て密かに西へ進んでいる。三成は小早川勢に近づくことで、離反の虚実を確かめ、味方に引き留めることを目的としていたので、松尾山から距離のある笹尾山に布陣する理由はなかった。

 さらに島津惟新(義弘)は「石田か後ろに陣を取る」とあり、西軍が徳川軍と小早川勢に挟撃されると、徳川軍の先手である松平忠良・井伊直政の攻撃を受けて激戦した。すると惟新が笹尾山の「後ろに陣」を布いているわけがなく、松尾山から見て、三成の背後を警護するところにいて、東から現れた徳川軍先手と交戦したと考えるのが妥当である。

 さらに島津隊の「其南ハ越前海道より関原の本道を限り」、そこに宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継・大谷吉治・平塚為広・戸田勝成らが布陣していたという。そして「其西の方、本道の南、松尾山の下」に、小早川秀秋・脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠らが陣取っていたと記している。これらの陣所を従来説の配置で考えると違和感が残るのだが、近年、高橋氏や白峰氏が打ち出した合戦像から想像すると、整合性が取れてくる。明治以前の三成は、笹尾山ではなく、小関付近の自害峰にいたのである。

 なお、笹尾山の「石田三成陣跡」は碑石が立ち、竹矢来・馬防柵が復元され、観光地として整備されているが、ここに三成が足を踏み入れてすらいなかったとしても、この地は訪ねるべきところだと思う。笹尾山こそ関ヶ原の古戦場一帯を一望できる景勝地であり、さらには関ヶ原文学の世界へ繋がるゲートでもあるからだ。

 この地はこれからも関ヶ原物語の「聖地」として、永く愛されていくことだろう。