笹尾山布陣とは書いていなかった

 わたしが江戸時代の史料を見渡してみたところ、たしかに「石田三成が笹尾山に布陣した」と読める文献は見つけられなかった。そのかわり、次のような記録があった。

 江戸時代における三成布陣の記述を、古い順番に並べていこう。

 まず、松平忠明『当代記』(1644年)である。そこでは「2万5000以上の西軍は、河戸・駒野(南濃町駒野)に布陣して、関ヶ原には石田三成・宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長らが諸陣を(【原文】二万五千余、こうづ駒野に居陣す、関ヶ原には石田治部・浮田中納言・大谷刑部・小西摂津守諸陣)」とあるが、三成個人の居場所は特に比定されていない。

 ついで酒井忠勝『関原始末記』(1658年)は「三成ハ[中略]小関ノ宿ノ北ノ山際」に布陣したと記している。この「小関」は、現在の若宮八幡神社近辺で、自害峰とほぼ重なる地点である。もちろん笹尾山からかなり離れている。

 そして山鹿素行『武家事紀』(1673年)は「三成ハ小関村北山ノ尾ニ陳ヲハル」と記述している。先と同じく「小関」の村に布陣している。

 宮川忍斎『関原軍記大成』(1713年)も「三成は、小関山に本陣を居ゑ」たと記述している。同じく「小関」である。これ以外にもここに紹介しきれなかった無数の文献が、石田三成の布陣地を「小関」としている。このように江戸時代の文献は、三成の布陣地を「小関」の地に比定しており、「笹尾山」とはしていなかったのである。

明治に作られた「笹尾山」布陣

 三成の布陣地を笹尾山に比定する初見は、明治25年の神谷道一『関原合戦図志』(1892年)である。笹尾山が初めて登場する部分を少し長いが、現代語訳で紹介しよう。

「西軍はいったん山中村に集合したあと、さらに東軍の動向を探り、宇喜多らの諸隊は天満山、小池、小関の地に出て、布陣を行った[中略]笹尾は小関村の北、相川村の山尾にあり、その夜石田三成は藤川を渡り、この地に布陣して東南を向いて隊列を立てた(【原文】一旦山中村ニ集合シタル後更ニ東軍ノ運動ヲ探知シテ浮田等諸隊ハ天満山、小池、小関ノ地ニ出デ戦隊ヲ布列セシモノナリ[中略]笹尾ハ〈笹尾ノ丸山ト云フ〉小関村ノ北、相川村ノ山尾ニアリ、今暁石田三成ハ玉ノ藤川ヲ渡リ〈安民記、家忠日記、慶元記、大条志、会津記〉此処ニ著シ、〈松尾山ヨリ山中村ヲ経テ玉村ノ南ニテ藤川ヲ渡リ笹尾ニ著セシナリ〉辰巳ニ向ヒテ備ヲ立ツ)」(184ページ)。

 ここに突然「笹尾」の地名が登場するが、その根拠は明確に示されていない。一応「安民記、家忠日記、慶元記、大条志、会津記」を参考にしたとあるが、該当する文献を可能な範囲で見渡したところ、「笹尾山」の地名を見つけることはできなかった(もしも見つけたら教えてほしい。異本もあり、見落としがないとは言い切れないからだ)。

 すると同書の著者である神谷は、何を根拠に三成の布陣地を笹尾山としたのだろうか。