捕虜となった三成と徳川家臣の対面
9月15日、西軍は徳川家康率いる東軍に惨敗した。大谷吉継は戦死した。三成は地元の近江に逃亡するが、徳川方の田中吉政に身柄を確保された。ほどなくして三成を閉じ込める牢屋へ、徳川家臣の本多忠勝が訪問する。このときのやりとりについて、関ヶ原合戦に従軍した人物の回顧録には、牢屋の番人の証言が残されている。
「本多忠勝が見廻りにやってこられた。忠勝は三成に会うと両手をつき、『三成殿はご判断を誤られ、このようになられました』と述べた。しかし三成は何の挨拶もせず、寝ておられた(【原文】「本多中務見廻に被参、治少へ御逢候時畏り両の手を突、治部少輔殿、御分別御違其体に被為成候と被申候へ共、治部少何の挨拶もなく寝て被居候」)」(『慶長年中卜斎記』中之巻)
このときなぜ忠勝は、これから大乱の張本人として処刑される男に、両手をついて言葉をかけたのだろうか。忠勝も三成も官位は共に従五位下である。年齢は忠勝が12歳年長で、勝者と敗者との格差もあった。ならば踏みつけても許されるはずの罪人にどうして畏る必要があろう。
おそらくどこか心惹かれていたのだろう。
もし三成が、野心や私利、または狭量な正義感で動くような人物だったら、忠勝が手をつくはずもない。
俗話と真実の狭間
俗話では、処刑される前の三成は、本多正純・福島正則らに面罵されて、自らの大義を堂々と語り返したという。また、小早川秀秋に対しては、怒気を露わにして非難したという。しかし、どれも三成という人物を図りかねた後世の作り話に過ぎない。
数日後、三成は何も語ることなく処刑場に連行されていく。そこでもう一つ俗話がある。三成が喉が渇いたというので、番人が柿を差し出した。すると、三成は「柿は喉を悪くするから」と断った。番人は笑った。「死に際に、健康を心配するのか」。しかし三成はいう。「大望ある者は最後まで諦めないものだ」。このときの三成を「限りなく正しく、限りなく下らない」と評する声もある。もちろんこれもあとから作られたお話である。
東軍は別に政権が欲しくて戦ったわけではない。家康も秀吉の遺言に従い、豊臣公儀に尽くしてきたが、そのたびに痛い目に遭ってきたので、そこにこだわる気持ちはすでに薄かったであろう。義理は尽くした。
そこで、石田三成の処遇である。争乱の主犯は言うまでもなく、毛利輝元である。あとは会津の上杉景勝だろう。かれらは細やかに密謀を凝らすことなく、ただ自発的に連携していた。これをするどく責めたところで、家康にも日本にも利益などない。ならば、捕虜となって死刑を免れ得ない西軍の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らにすべてを押しつけるのが手っ取り早い。そしてそれはかれらも覚悟していたであろう。日本国内の争乱は、そうやって解決されるのが当たり前だったからだ。
忠勝もこれから三成が無数の罪をなすられて殺されることを知っていただろう。三成も理解していたはずである。だから、忠勝は両手をつき、三成は黙っていた。
捕縛されてからの三成の言葉は、史料には何も伝わっていない。
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