長尾政景とその妻・仙洞院の肖像画。

(乃至 政彦:歴史家)

上杉景勝の実父であり、上杉謙信の姉婿でもあった越後の大領主・長尾政景。謙信の片腕に等しいこの人物の突然死は、複数の伝承が知られるが、もっとも有名なのは謙信の軍師格と伝わる宇佐美定満による暗殺説だろう。しかしこれは、実際の横死事件から100年以上もの時間が経ってから急に湧き出た話だった。上杉謙信の関東遠征の真相を描きたちまち重版となった話題の書籍『謙信越山』の著者、歴史家の乃至政彦氏が、謎多き「長尾政景溺死事件」の真相に迫る。(JBpress)

上杉謙信の片腕、死す

 永禄7年(1564)7月5日、越後の大領主・長尾政景が亡くなった。政景は上杉景勝の実父であり、上杉謙信の姉婿でもあった。いわば謙信の片腕に等しい人物である。

 天文17年(1548)の大晦日にまだ少年の面影を残す19歳の謙信が、越後の国主になった時、政景は“お前のような若造にこの越後はまとめられない”とばかりに首を横に振った。だが、政景よりも謙信に味方する領主が多く、孤立した政景は降伏を決断するしかなくなった。

 この反乱と降伏は、江戸時代に書かれた上杉家の歴史書『謙信公御年譜』の記述により、天文19〜20年(1550〜51)のこととされている。だが、同時代の一次史料を見る限り、もう少し前の時期に起こっていたのではないか。確証は得られないが、この事件は通説と1年ほどのズレがあるように思われる。

 武田方の二次史料『甲陽軍鑑』によると、政景は謙信の副将も同然の身分を得ていたが、両者の関係は不仲だったようである。ただし一次史料で両者の関係がどうであったかを示すものは、何も残されていない。

 先述したように、その政景が突然死した。場所は、その居城である上田庄の野尻池とも、信州の野尻湖とも伝えられている。享年38の若さであった。