(乃至 政彦:歴史家)
上杉景勝の実父であり、上杉謙信の姉婿でもあった越後の大領主・長尾政景。謙信の片腕に等しいこの人物の突然死は、複数の伝承が知られるが、もっとも有名なのは謙信の軍師格と伝わる宇佐美定満による暗殺説だろう。しかしこれは、実際の横死事件から100年以上もの時間が経ってから急に湧き出た話だった。上杉謙信の関東遠征の真相を描きたちまち重版となった話題の書籍『謙信越山』の著者、歴史家の乃至政彦氏が、謎多き「長尾政景溺死事件」の真相に迫る。(JBpress)
◉長尾政景溺死事件の真相(前編)
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65743)
◉長尾政景溺死事件の真相(中編)
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65818)
謙信の家族関係
ここまで一次史料によるファクトを整理してみたが、これに帰納法的思考を絡めて、もう一度その死因を考えてみることにしよう。
そもそもの話で恐れ入るが、戦国大名の家臣が逆心を抱いたとして、そのような前景が一次史料に残ることなどない。武田信玄の実父信虎の追放や、浅井長政による織田信長への裏切りが、その前の一次史料で予兆できるであろうか。謀反というのは、そんなに簡単に露見するものではない。だから、時として大きな成功を果たしてしまうのだ。
もし長尾政景が謙信に謀反を考えていたとして、その奥意はできるだけ表に出さないであろう。それに主君から途方もなく優遇される重臣だとしても、当の本人は不本意であったかもしれない。本能寺の変の惟任光秀がいい例だろう。
謙信は政景を片腕同然に重宝していた。
だが、その思いが通じていなかったとすればどうだろうか?
例えば謙信は旗本の護衛を、下郡の城主たちで構成する諸隊に任せていた(「藤戸明神由来」)。国内城主の中でも彼らは謙信から信頼を寄せられていた。だが、その下郡の者たちは、謙信死後の天正7年(1579)2月3日付書状で「我らは謙信様から特別に御芳恩を受けていなかった」と述懐するぐらい謙信の扱いに不満が残っていた(『上越市史』1753)。
先ほど見てもらった「侍衆御太刀之次第」で下郡第2位に名前の見える「本庄弥次郎殿」こと本庄繁長は、後に謙信を窮地に追いこんだ大乱の首謀者である。このように謙信が礼儀を尽くしたところで、それが万人に通じているわけではなかった。
ついで、家族関係である。謙信の姉である仙洞院は、御館の乱で、上杉景虎を擁護したことから、景勝と不仲になった。仙洞院は、「長尾政景夫妻像」
一方で、肝心の上杉景勝であるが、これが実母の仙洞院と真っ逆さまで、謙信の追善法要を何度も執り行なっているのに、政景に関しては全く弔った形跡がない。その後の米沢上杉家も藩祖の実父である政景に対して、まるで関心がなかったらしく、墓所すら作っていないのだ。
これは、景勝と仙洞院の不仲も関係していようが、それにしてもこれはちょっと異様な事態である。政景横死の原因がどうであれ、仙洞院とその娘(畠山義春夫人。政景次女)は自分たちが謙信を弔う必要などないと考えていたのだろう。そして景勝は謙信への想いが強い割に、実父への態度がとても冷淡だった。