海外との貿易に熱心だった家康だったが・・・
江戸幕府を開いた徳川家康は、当初、外国との貿易に非常に積極的でした。明やタイ、カンボジアやベトナムとの通商にも積極的でしたし、スペイン人が運航するマニラ船に対して関東に寄港するようかなり熱心に誘致したようです。
江戸時代が始まった頃の日本では、中国から綿、砂糖、生糸、茶などを輸入しており、貿易収支は赤字でした。それを補填するため、日本は銀を輸出せざるを得ませんでした。17世紀前半の日本の銀産出高は、世界の3分の1を占めていたとも言われています。
これは日本に大量の銀があるうちは問題なかったのですが、あまりに大量の銀が流出し、また国内の金山・銀山の産出量が大きく減少してきたため、国内で使用する銀が不足する事態に直面することになりました。
そこで徳川幕府は、金や銀の海外流出を完全にストップさせることにしました。同時に日本経済は「大転換」を余儀なくされることになりました。
すなわち、銀輸出量が減少し、海外からの輸入が難しくなったため、日本は、中国から輸入されていた綿、砂糖、生糸、茶、さらに朝鮮から輸入されていた朝鮮人蔘などを国内生産に切り替えるようになったのです。いわば、輸入代替産業を発展させることになったのです。長期的にみれば、これは日本の産業革命に大きく貢献することになりました。
これらの商品作物の栽培に日本の気候は適しているとは言えませんでしたが、徐々に綿、砂糖、生糸、茶、朝鮮人蔘などの国産化に成功していきます。朝鮮との貿易は、朝鮮人蔘の国産化により大きく減少したのです。
時代が下がって明治時代になると綿、砂糖、生糸、茶は、日本の主要な輸出品にまでなります。江戸時代、銀産出量減少に伴い、やむなく国産化に取り組んだことで、結果的に日本は重要な輸出品を獲得することができたと言えるのです。日本は江戸時代のうちに、欧米経済に追いつくための潜在力を身に付けていたという見方も成り立つのです。