秀吉の失敗を見て家康が新たに創出したシステム
家康がつくった徳川幕府もまた、信長の政策を継承し、国替えを実施しました。国替えされた大名は、そのたびに力を削がれます。幕府に牙をむく可能性がある大名は江戸から離れた地に国替えさせられますし、わざと力のある大名の領地と隣接する地に封じられました。こうして徳川幕府は、反乱の芽を事前に摘み取っていったのです。
この「国替え」によって、中世ヨーロッパでは当たり前だった領主と領地が結びついた封建制とは様相の異なる日本独自の封建制が築かれます。
「海禁」という政策は、このような状況において実行されたのです。
秀吉や家康が天下統一を成し遂げる前の戦国時代、各武将の国家運営は、領地がどんどん大きくなるという拡大のシステムに基づいていました。戦いで功績を挙げた武将はより広い領地が与えられる。信長や秀吉といった権力者は、配下の武将に分け与える領地を確保しなければなりません。しかし、国土が一定である以上、このシステムはどこかで必ず行き詰ります。
そして秀吉は、実際に武将たちに配分する土地がなくなってしまったのです。そこで目をつけたのが朝鮮半島でした。部下に分け与える土地を求め、秀吉は朝鮮に大規模な出兵を行いました。ところがこれが大失敗でした。秀吉は朝鮮出兵で大量の人命と巨額の資金を失ってしまったのです。
この失敗を目撃した家康が、自らの天下統一後に創出しなければなかったのは、戦国時代とは異なる、拡大を前提としない統治システムでした。帝国主義的拡大を前提としていたヨーロッパのシステムとは異なるこの仕組みは、国替えや参勤交代などを駆使して、大名が突出した力を持つことを抑えつつ、功績のあった者には報いるというものでした。そしてまた「海禁」も、徳川幕府の拡大を前提としないシステムの一環だったと言えるのです。