小塩山(京都市西京区) 写真/倉本 一宏

(歴史学者・倉本 一宏)

退潮する藤原式家

 藤原式家の人物を取りあげるのも、これが最後になるだろうか。『続日本後紀』巻十六承和十三年(八四六)八月辛巳条(十二日)には、藤原吉野(よしの)の薨伝が載せられている。

散位正三位藤原朝臣吉野が死去した。吉野は参議従三位勲二等大宰帥蔵下麻呂(くらじまろ)の孫で、致仕参議正三位兵部卿綱継(つなつぐ)の男である。若くして大学に学び、自分より下の者に尋ねることを恥じず、寛大な性格で人を懐けた。賢者を見ては、それと同等となろうと思い、手から書物を離すことがなく子弟を教え諭した。穏やかな人柄で、他人の過ちを見ても冷ややかに対することがなく、議論をして、法に反するようなことを主張することはなかった。住みついたところには好んで樹木を植えた。昔、晋の王徽之(おうきし)が空き屋に住み、庭に竹を植えたことがあった。人がその理由を聞くと、徽之は竹を指して、「一日としてこの君(竹)がなくては過ごせないのです」と言った。吉野には千古を隔てて親しい仲間がいる、ということができる。吉野は父母に仕えて孝行し、わずかの間もそれに欠けることがなく、忠と孝の道にともに励んだ。これより先、父兵部卿が新鮮な肉があると聞いて人を遣わして求めたことがあった。たまたま吉野は朝廷に出仕していて在宅していなかった。肉の持ち主はそれを惜しんで分けてくれなかった。後に吉野はこのことを聞いて、持ち主を責めて涙を流し、終身、肉を食することを止めた。

弘仁四年に主蔵正から美濃少掾に任じられ、同七年春に春宮少進に遷り、同十年正月に従五位下に叙され、駿河守に任じられ、諸事を滞りなく処理し、部内を取り締まり犯罪をなくした。弘仁十四年夏四月に東宮が受禅して即位する(淳和〈じゅんな〉天皇)と、五月に吉野は中務少輔となり、ついで左近衛少将に任じられ、天長元年に従五位上に昇叙し、同二年に伊予守を兼ね、畿内巡察使となり、八月に正五位下に叙され、同四年に従四位下を授けられ、皇后宮大夫に任じられ、同五年閏正月に右兵衛督を兼ね、五月に参議となり、式部大輔を兼ね、同七年五月に春宮大夫に遷り、八月に正四位下に叙され、右近衛大将となり、春宮大夫は故のままだった。

同九年十一月に従三位を授けられて、権中納言に任じられ、同十年三月に東宮が受禅して即位すると〈深草(ふかくさ)(仁明〈にんみょう〉)天皇〉、正三位を授けられた。その後、右近衛大将を辞職し、退位した淳和太上天皇に従った。

承和元年に権中納言から正任となり、同七年五月に淳和太上天皇が死去すると、一年間、出仕せず、再三にわたり上表して辞職を求めた。しかし、許されず、宮中からの使がしきりに出仕を求め、強いて参内するようになったものの、まもなく、承和九年七月に伴健岑(とものこわみね)の事変に縁坐して、大宰員外帥に左降され、同十二年正月に山城国に遷された。行年六十一歳。

 吉野は、藤原綱継の一男として延暦五年(七八六)に生まれた。母は蔵下麻呂の女の妹子(いもこ)。この年の公卿構成は、南家の藤原是公(これきみ)が右大臣として首班の座にあり、大納言が同じく南家の藤原継縄(つぐただ)ただ一人、中納言が北家の藤原小黒麻呂(おぐろまろ)と石川名足(いしかわのなたり)・紀船守(きのふなもり)の三人、参議が佐伯今毛人(さえきのいまえみし)・神王(みわおう)・大中臣子老(おおなかとみのこおゆ)・紀古佐美(こさみ)の四人というものであった。

 桓武(かんむ)天皇擁立に功績のあった藤原良継(よしつぐ)・藤原百川(ももかわ)、桓武の側近であった藤原種継(たねつぐ)、そして吉野の祖父の蔵下麻呂ら式家の公卿はすでに亡く、後に桓武の側近となる藤原緒嗣(おつぐ)や藤原仲成(なかなり)は、いまだ若年であった。式家の退潮は、覆いようもなかったのである。

 父の綱継も、吉野が生まれた年には二十四歳で出身前と、まったく頼りのない家に生を受けたことになる。なお、綱継が従五位下に叙爵されたのは四十一歳の年のことで、その時には吉野はすでに十七歳に達していた。

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 ついでに言うと、綱継は淳和天皇の即位に伴ってやっと六十一歳で蔵人頭、六十三歳で参議に任じられた。天長五年(八二八)に吉野に参議を譲って自らは致仕し、山井里第に隠棲した。後に述べる承和の変で吉野が左遷され、四年後に吉野が死去しても、さらに長命を保ち、承和十四年(八四七)に八十五歳で薨去している。