国家が貿易を管理するとは、考えてみれば当然のことです。そしてそれが可能だったのは中央集権体制が進んでいたからです。
すでに日本の律令制度を論じたときに(連載第72回)、中国では皇帝の独裁政治による中央集権体制が整っていったと述べました。
(参考)中国の最新鋭国家運営システム「律令制」はなぜ日本で消滅した
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65928
それに対し日本で中央集権体制が整い始めるのは、織田信長(1534〜1582)と豊臣秀吉(1536/37〜1598)の時代になってからのことでした。
家臣の功績や力量に応じて領地や領民を与えていくのが信長が築いたシステム
信長は、家臣の個々人の力量に応じて、領地・領民・城郭を預けるという政策をとりました。家臣はこれらを私有しているのではなく、信長から「預かって」いるにすぎないという関係です。こうして、家臣と領地との関係は中世と比較して薄くなりました。これは、本来なら封建制の否定といえるほどの事態です。
信長は容易に家臣の領地を替え、自身が征服した土地を家臣に預けることができました。この政策を踏襲したのが、秀吉でした。秀吉が家康を駿河から関東に移動させることができたのは、信長のこの政策を受け継いでいたからでしょう。
秀吉は政策面でも信長の後継者と言えました。逆に言えば、秀吉の政策は信長の発想と似ています。もし本能寺の変がなく信長が天下を統一していたなら、おそらく秀吉の朝鮮出兵と同様に海外遠征を実行していたことでしょう。