――片木美穂さんのインタビューでも出てきましたが、「おひとりさま」は「自己責任」を余計に意識して生きているような部分がありますよね。その状態で病気を抱えると、SOSを出すやり方も相手も思いつかなくなっていきます。
浅井 「おひとりさま」は、なんでも自分で調べて悩んで、選択していく「おひとりさま患者」になりがちでしょう。今の医療では患者さんの自己決定を重視する流れになっていますし、病も含めて自分の人生を思うように歩んで行くには、家族や親しい友人などがいても、最終的には自分自身ひとりの決断が必要になります。しかし、私はその時に患者が味わうことになる苦難を「ケア」する存在が必要だろうと思うのですね。
「おひとりさま患者」はケアを受ける機会が少ない
――病気になった時、身のまわりの世話など不便や不自由を解消してくれるサービスやツールは増えてきましたが、それだけではなくて、なんとも言えない寂しい気持ちがありますよね。誰かが、ただそばに居てくれたらというような。
浅井 病を持つことは、それぞれ個の体験です。病気そのものの心身の苦痛と、それを誰とも分かち合えないという孤独2つの苦痛を体験することになります。たとえそれが生死にかかわらない病気だとしても、この苦しさをわかってもらえないという孤独は患者にとって大きな苦難となります。
――病を得ることで孤独との闘いが始まるとなると、「おひとりさま患者」には、「物理的にひとりである孤独」に「病による孤独」が上乗せされるわけですね。
浅井 そう思います。「おひとりさま患者」の苦難を考える時、とてもお世話になっている看護師時代の先輩から、病気を打ち明けられたことを思い出します。彼女は私と同じく独身で、ひとり暮らし。ある日、胸にしこりがあるのに気づいて受診して、ひとりで検査の結果を聞いて手術することになったのです。そのタイミングで、たまたま会って話す機会があったのですが、
「自分の頭の中でね、『何にもない』から『最悪の結果』まで5つのパターンをシミュレーションしていたんだけど、悪い方の3番目だったんだよね」
と淡々というか、さも重要でないというように話すんです。周りに人は少なかったけれど、私は「ええっ、なんで!」と声に出してしまい、涙を止めることができませんでした。知識があるもの同士だから、「何にもない」から「最悪の結果」まで5つのパターンの<3番目>が、どの段階を指しているかを想像できたので・・・。先輩は「あさいちゃんがそんなに泣くから」と言いながら、テーブルの端に置いてある紙ナプキンを取り出し、目頭を押さえていました。私が泣き止むのを待って、先輩はそんなに泣かれるとは思わなかったよと笑いながら、ぽそっと私にこう言いました。
「ありがとう。そうか、あさいちゃんが、私の代わりに泣いてくれたんだね」
その言葉を聞いたとき、私はああ、先輩は泣いてないんだ、泣けなかったんだと、思いました。先輩はひとりで医師からの告知を聞き、その結果を受け止め、その日も変わらず仕事をしていました。もっと言うなら、検査をして結果が出るまでの1週間、そんな状況にあることなど誰にも伝えず、何事もなかったかのように普段と変わらない生活をしていたんです。告知をされた次の日には、自分の上司に入院することになったことを伝え、自分が休んでる間の影響が最小になるように粛々と自分の役割を調整して、入院の準備を進めて。そして私と会った時には頼りない後輩に気を遣わせないように、病を打ち明けたのですね。「おひとりさま患者」はしっかりした人ほど泣くことも取り乱すこともできずに、粛々と病を抱えていかなければならないのだと感じました。