「自助」を深めすぎないで
ミエコさんは最期が近くなってから、親戚にSOSを出してサポートを得ることができ、高齢の母を守ることも可能になったが、その母にも、終末期を支えてくれた従姉たちにも最後まで「つらい」と言わなかったという。浅井氏が話した先輩と同様に「つらい、苦しい、助けて」と言って、それを受け止めてくれる人、抱き締めてよしよしと涙が止まるまで泣かせてくれる人・・・「ケア」をしてくれる人を彼女は求めなかった。
冒頭で紹介した尾崎放哉の「咳をしても一人」には、病で苦しい孤独な時に、そっと背中をさすってくれる存在を求める心情が滲んでいる。「おひとりさま」がケアを得るにはどうしたらいいのか、その方法は筆者にはわからないが、病を得た人には特に「ケア」があってほしいと思う。
菅義偉首相は2020年9月に目指す社会像として「自助、共助、公助、そして『絆』」を掲げ、「まずは、自分でできることは自分でやってみる。そして、地域や家族で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットで守る」と述べたが、「ケアをする/される」は共助や公助の中にある。自助を深めすぎると共助を求めることも差し出すことも難しくなっていき、「おひとりさま患者」はどんどん「ケア」を受けにくい状況に陥ってしまうだろう。「まずは自分で」と自助を過大評価して「おひとりさま」に努力や責任を課すのではなく、共助や公助をまっ先に求めたり、差し出したりできることが「おひとりさま患者」になっても、自分らしい人生を生きることができる社会ではないだろうか。
【浅井美穂】
大阪大学人間科学研究科博士課程在学中、看護師。ひとりで闘病する人の語りを「現象学」によって明らかにする調査・研究を行っている。