病で上乗せされる「孤独」
――「おひとりさま」で生きてきた人が病気になった時、この先輩のように粛々と進めていく人はけっこうおられますし、ミエコさんもそうでした。普段から生活のさまざまな場面で「なんでもひとりでできる、やらねば」と、高めの負荷をかけているところに、病という孤独との闘いが上乗せされても、ひとりで生きてきた自分の実績から、闘病も「ひとりでできる、やらねば」と考えがちになるのでしょうか。
浅井 それはあるかもしれません。先輩は、「つらい」という言葉を口にしませんでした。本当は言いたかったのかもしれませんが、年の離れた後輩に自分の苦悩を背負わせたらいけないと思ったのかもしれません。でも、もし「つらい、苦しい、助けて」と言って、それを受け止めてくれる人、たとえば家族やパートナーがいたとしたら、抱き締められて、手を握ったり背中をさすってくれて、涙が止まるまで泣いた後、安心して眠れたんじゃないかと考えてしまいました。それは、誰かに「ケアされる」ことだと思うのです。周囲に家族など支えてくれる環境がある人に比べて、おそらく「おひとりさま」は圧倒的にケアを受ける機会が少ないでしょう。ひとりで闘病するということは、「ケアが受けられない」という寂しさも含めたものなのかもしれません。
――ミエコさんのように介護を担っていたり、ひとり親だったりするなど「ケアをする側」だと、相手を守りたいがゆえに自分の苦痛を出せなくなるのではないでしょうか。
浅井 私は「誰かをケアすることで、ケアされている」ことはあり得ると考えています。それは、どちらかが一方的に与えたり受けたりするだけの関係性ではなく、重要な誰かがそばにいる、存在していると感じられる相互の関係性があるからだと思うのです。
――「ケアすること」あるいは「ケアされること」によって、お互いがつながりのある関係として存在しているのですね。そこで「ケアをする/される」を一方的にとらえてしまうと、迷惑や負担と考えて孤独な人になってしまうのかもしれません。
浅井 私は結婚したことがなく、子供も産んだこともないので想像するしかないのですが、きっと家族がいても孤独な人もいるでしょうし、家族がいなくても孤独ではない人もいるでしょう。でも、物理的な「おひとりさま」は、「ケアする」「ケアされる」機会がどちらも圧倒的に少ないと思います。そこに病による孤独が重なるわけですから、苦難の多い状況になるでしょう。どうすれば「おひとりさま」が病気になった時にケアを受けられるか、その機会をつくるかが課題になると思います。