双葉町の商店街にかかっていた、いわゆる「原子力広報ゲート」。現在は撤去されている(写真:橋本 昇)
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 10年前の東日本大震災。太平洋に面した岩手、宮城、福島の東北3県はいずれも津波の大きな被害を受けた。交通網も寸断されたが、被災の状況を伝えようとマスコミの取材陣はなんとかして現場に入った。ただし、原子力発電所の水蒸気爆発が起こった福島を除いて、だ。
 そうした中、事故直後から福島に入り、現地がどうなっているのかを撮影し続けた数少ないフォトグラファーの一人が橋本昇氏だ。当時橋本氏は何を見て、何を記録したのか。改めて写真と文章で振り返る。(JBpress編集部)

無人の街

(フォトグラファー:橋本 昇)

 春の青空が広がっていた。そして目の前には一台の車も、一人の歩く人もいない通りが先まで続いていた。

 震災からすぐの2011年3月17日、ルポライターのTさんと二人で原発事故による避難指示で住民が去った福島県浪江町に入った。

 まるで映画のセットのように静まり返った町。人の声も、車の通る音も聞こえない。時おりカラスが濁った声でガアーガアーと騒いだ。他に聞こえてくるのは風の音だけだ。畳屋、八百屋、魚屋、薬局・・・道の両側に軒を連ねる商店も、ガラス戸が閉じられ沈黙している。避難指示から約1週間、町は時間が止まったままだ。

 道路の真ん中に倒れたままの自転車、地震で倒壊した家も手付かずの状態でそのまま放置されている。遠くから犬のかん高い吠え声が聞こえてきた。残された飼い犬だろうか?

浪江町では地震で崩れ落ち道路を塞いだ家屋もそのままの状態だった(写真:橋本 昇)
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