東日本大震災では気仙沼をはじめ東北地方が甚大な被害を受けた(写真:Paolo Pellegrin/Magnum Photos/アフロ)

 東北地方を襲った未曾有の大災害から10年を迎えた。インフラを中心に被災地の復興は進んだものの、住民の高齢化や人口減少は続いており、街やコミュニティの再生という面では震災前にほど遠い。地元住民に甚大な被害を与えた福島第一原発の後処理も、いまだ出口が見えない状況だ。

 あの日のことを振り返れば、辛い思い出ばかりが胸に去来するが、あの生きるか死ぬかの瞬間には、人間の強さと美しさを感じさせる奇跡のような出来事もあった。われわれの心に灯をともす、日本を元気にする震災秘話──。東京都副知事として震災対応の最前線に立った作家の猪瀬直樹氏とジャーナリストの田原総一朗氏がホストを務める「元気を出せニッポン!チャンネル」の一部を公開する。

田原総一朗氏(以下、田原):猪瀬さん、よろしくお願いいたします。

猪瀬直樹氏(以下、猪瀬):どうぞよろしくお願いいたします。

田原:2011年3月、東日本を大きな地震と津波が襲いました。中でも、東京電力の福島第一原発が大被害を受けた。大変な大事件でした。その時、猪瀬さんは東京都の副知事でした。

猪瀬:あの時は東京も震度5強の揺れを観測しました。

田原:だいぶ揺れましたね。長い時間だった。

猪瀬:あの時の最大の課題は情報ネットワークの断絶でした。鉄道が止まり、自宅に帰れなくなった帰宅困難者が街にあふれたんです。その数は300万、400万と言われました。この問題に対処するため、東京都は情報発信を始めました。

田原:どういう情報発信?

猪瀬:ツイッターでの情報発信です。ああいう緊急時には、スマホやガラケーで家族の安否確認をするので、通信回線がパンクします。東日本大震災の時もそうでした。

 最初は都のホームページで避難場所などの情報を流しましたが、アクセスが集中したことで、都のホームページもつながりにくくなりました。災害時に最も欲しいものは情報です。その情報が断絶している。そこで、アクセスできないホームページのバイパスのために、僕がツイッターで発信を始めたんです。夜8時ごろでした。

田原:ツイッターで? どんな発信をしたのでしょうか。

猪瀬:家に帰れない人が避難できるように、「池袋の東京芸術劇場を開けました」「ビッグサイトを開けました」「都立高校を開けました」といった情報です。都庁の1階も開放しました。鉄道の情報もそうです。JRや私鉄が動いているのかどうか。都営地下鉄は都が直接管理していますので、いつ動かせるようになるのかを確認して「9時半ごろに動きますよ」と

田原:なんで猪瀬さんできたの?

猪瀬:その1年ほど前からツイッターを始めていて、要領が分かっていましたから。民間人の出身は僕だけで、僕以外にツイッターで発信する人はいないと分かっていたので、どんどん発信しました。

 すると、今度はどんどんツイートやリツイートが集まってくるんです。そのメッセージを片っ端から印刷したらすごい量になりました。

田原:どのくらい?

猪瀬:もう何百、何千通。その中には、病院からの連絡もあって、福島県いわき市の病院から停電で人工透析ができなくなってしまったので助けてほしい、という要請もありました。400~500人の人工透析患者が透析を受けられずに困っている、と。

田原:400人!