「教育改革」がちっとも進まないカラクリ
「経済の回復・成長のカギは人材だ」という話になると、「じゃあ教育が大事だよね」という、飲んで議論したりしているといつも行きつく、ある種ありきたりの結論、「教育万能論」になってしまいます。ところが、実際に政権として、ではどのように教育政策を変えれば経済成長や日本社会の地力の向上に結び付くのか、という話になると議論は非常に混迷してきます。
というのも、公的教育に関することで変革を試みようとすると、反対側から猛烈な異論が噴出してしまうからです。英語教育へのTOEFLなどの民間試験の導入を巡る混乱が記憶に新しいところですが、より直近で言えば、例えば「教育のデジタル化」もそうでした。
「教育のデジタル化なんてさっさと進めたほうがいいに決まっている」と思う人も多いと思いますが、実際に進めていくのはかなり大変なことになります。現場からの反対の声を無視できないのです。コロナ下で一斉休校となり、さすがに学力低下を防ぐためにオンライン教育推進の機運が高まりましたが、それでも各地の教育現場からは反対の声が多数寄せられています。
なぜ現場が反対するかと言えば、各家庭によってネット環境やデジタル機器の有無など状況が全然違うため、教育格差を広げかねないからです。スマホやタブレット端末などが一人一台のレベルであり、Wi-Fi環境も整っていて、有料の教材をどんどんダウンロードできる裕福な家庭の生徒と、スマホが家に一台かろうじてある程度の貧困家庭の生徒で格差が生じるという理由での反対です。確かに、オンライン教育が進めば進むほど、当面は、この学習機会の格差は広がるでしょう。その状況を目の当たりにする現場の先生方の心情としては、「可哀想な方」の水準に合わせようとするのも無理はありません。そのため、直接生徒と向き合っている現場の先生が「教育のデジタル化」に強く反対したのです。コロナ下でさすがに少しは進みつつありますが、文科省が旗を振っても、国際的に見てなかなか「教育のデジタル化」が進まない背景には、こうした事情もあるのです。
デジタル化だけではありません。特に教育は、何かを改革するべくと、これまでと違う方向に方針を振ろうとすると、一方からものすごい反対が起こる世界なのです。英語教育やデジタル化のような、ある意味テクニカルな改革ですらそうですから、より本質的な人間としての内面にかかる改革などは到底無理でしょう。例えば、少々厳し目の教育によって「逞しい日本人を作ろう」などという方針を内閣や文科省が掲げたりすれば、「管理教育には絶対反対」などという声が上がることは必至です。逆に、生徒を管理することをせず、「自主性のある人間を作ろう」などとぶち上げれば、今度は逆の立場の人たちが「自由放任の名のもとに教育を放棄している」などと反対の声が上がります。結局、公教育で強めの方向性を出すのは極めて難しいのです。