菅義偉首相といえば、官僚に対する強い姿勢がクローズアップされる。誇張されている面もあるが、霞が関(中央省庁の通称)への影響力は官房長官時代から圧倒的であったことは間違いない。メディアや有識者は、その力の源泉に関し、2014年に創設された「内閣人事局」の存在を挙げる。内閣人事局は霞が関の幹部人事を決定する機関であり、「官房長官として内閣人事局を支配したからだ」という説明が多い。果たしてそれだけなのだろうか。菅首相の官僚操縦術を探ってみる。(文中一部敬称略)
田中角栄の官僚操縦術
「すごく二面性のある人だ。笑うとかわいらしいという人もいるが、見ていて怖いという人もいる。ものすごくドライで機能的なところもあれば、義理人情を大事にする面もある。そういう複雑な要素が集まった人。昔の日本人の部分と、ものすごく新し物好きのミーハー的な好奇心が合わさった人でもある」
10月21日に放送された『ABEMA Prime』の中で、日経新聞のニュース・エディターである丸谷浩史氏が菅首相の人物像を上記のように指摘した。丸谷氏の見方は的を射ている。筆者は「二面性」のうち、「ものすごくドライで機能的なところ」が、官僚との付き合い方を探る上での大きな手掛かりだとみる。
政治家と官僚との関係をみるとき、成功例としてしばしば語られるのは田中角栄元首相である。政治家と官僚の“飲み食い”が常態化していた当時と社会の状況が違うため、単純に比較するのは適切ではないが、菅首相の官僚操縦術を考える上では押さえておきたい。田中の秘書を23年間務めた早坂茂三氏の著書『田中角栄とその時代』(PHP文庫)に、角栄流の操縦術が端的にまとめられている。
<役人操縦術の家元は角栄である。無名時代の十年間、三十三に及ぶ前代未聞の議員立法を手がけた田中は、役人の正、負の特徴を仔細に知り、以後、手足のように彼らを動かした。役人の苦手なアイデアを提供、政策の方向を示し、失敗しても、責任を負わせることはしなかった。心から協力してくれた役人は、定年後の骨まで拾った。入省年次を寸分違わず記憶し、彼らの顔を立て、人事を取り仕切った>
エピソードは数えきれない。1964年4月、大蔵大臣の田中は、入省したての新人20人と大臣室で面会した。その際、全員の名前をそらんじて「くん」付けで呼んだ上、ひとりひとりと握手を交わした。20人の中の1人だった経済学者の野口悠紀雄氏が明かした逸話である。20人なら覚えられなくはない人数だが、間違う可能性は否定できない。間違ったときのリスクは大きい。それでも、田中はやってみせた(前野雅弥『田中角栄のふろしき 首相秘書官の証言』、日本経済新聞社)。
時は移り、菅首相はどうか。