
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、歌人としても知られる在原業平です。
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元皇親としては、順調な歩みだったが…
前回(「代々文才に恵まれ学者や歌人を輩出した大江氏、その主流となった大江音人の、能力で出世し公卿になった異例の生涯」)、在原業平(ありわらのなりひら)の名前が出たついでに、超有名人である業平について語ることとしよう。『日本三代実録』巻三十七の元慶(がんぎょう)四年(八八〇)五月二十八日辛巳条は、業平の卒伝を載せている。
従四位上行右近衛権中将兼美濃権守在原朝臣業平が卒去した。業平は、故四品阿保(あぼ)親王の第五子で、正三位行中納言行平(ゆきひら)の弟である。阿保親王は桓武(かんむ)天皇の女である伊登(いと)内親王を娶って、業平を生んだ。天長(てんちょう)三年、親王が上表して云ったことには、「无品高岳(たかおか)親王の男女は、先に王号を停めて、朝臣姓を賜りました。私の子息は、未だ改姓に預っていません。既に兄弟の子として、どうして同列の差を異にしましょうか」と。ここに於いて、仲平(なかひら)・行平・守平(もりひら)たちに詔して、姓在原朝臣を賜った。業平は、体貌(体つきや顔)は閑麗(雅やかで麗しい)であった。放縦(気ままなこと)であり、(法度に)拘わらなかった。ほとんど(漢籍の)才学は無かったが、善く倭歌を作った。貞観(じょうがん)四年三月に従五位上を授けられ。貞観五年二月に左兵衛佐に拝任された。数年にして左近衛権少将に遷任された。ついで右馬頭に遷任された。位階を加えられて従四位下に至った。元慶元年に遷任されて右近衛権中将となった。明くる元慶二年に相模権守となり、後に美濃権守に遷任された。卒去した時、行年は五十六歳。
弘仁(こうにん)元年(八一〇)の平城(へいぜい)太上天皇の変(薬子[くすこ]の変)によって皇太子高岳親王が廃され、その子の善淵(よしふち)と安貞(やすさだ)は臣籍降下して在原朝臣姓を賜った。一方、阿保親王は変に連坐して大宰権帥に左遷された。天長元年(八二四)に平城が死去した後に赦されて入京した。しかし、承和(じょうわ)九年(八四二)に皇太后橘嘉智子(たちばなのかちこ)に封書を送り、承和の変の発端を作ったものの、その直後に急死してしまった(倉本一宏『皇子たちの悲劇』)。
阿保親王は天長三年(八二六)に子息三人の臣籍降下と在原朝臣姓賜与を願い出た。この三人はすでに成長している二男から四男までで(長男は『在原氏系図』によれば早世したのか兼見王となっている)、まだ数えで二歳の五男業平は、この中には含まれていないが、「仲平・行平・守平等」の「等」に含まれているのかもしれない(まだ名前が付いていなかったか)。なお、行平は後に中納言に上っている。
業平は天長二年(八二五)の生まれ。兄弟のなかで、業平のみ、生母がこの卒伝によって伊都(いと/伊登)内親王とわかっているが、他の兄弟のなかにも伊都内親王から生まれた者がいたかもしれない。この伊都内親王というのは桓武天皇の第八皇女で、生母は藤原平子。
この連載の二回目に登場した藤原継縄(つぐただ)の孫、七回目に登場した乙叡(たかとし)の女である。百済王明信と桓武天皇をめぐる乱脈な関係は、そこで述べた。その血を受け継いだ業平の数々の逸話や性格も、その影響であろうかと勘ぐってしまう。
この卒伝や六国史の記事以外に、『三十六人歌仙伝』という伝記も含めて、業平の官歴を復元すると、承和十二年(八四五)、二十一歳の年に左近衛将監に任じられ、承和十四年(八四七)に二十三歳で蔵人に補された。そして嘉祥二年(八四九)に二十五歳で従五位下に直叙された。元皇親としては、順調な歩みと言えよう。ただし、文徳(もんとく)天皇の時代になると、なぜかまったく昇進が止まってしまった。