『伊勢物語』のなかの確実な史実
その後、清和(せいわ)天皇の時代になるとふたたび昇進を始め、貞観五年(八六三)に左兵衛権佐、貞観六年(八六四)に左近衛権少将、貞観七年(八六五)に右馬頭に任じられ、貞観十五年(八七三)には位階も従四位下まで上った。陽成(ようぜい)天皇の時代、元慶元年(八七七)に従四位上右近衛権中将に上ったが、これが極位極官ということになり、後世、「在五中将」と称されることとなった。
なお、あまり知られていないが、元慶三年(八七九)には五十五歳で蔵人頭に補されている。清和天皇の女御で貞明(さだあきら)親王(後の陽成天皇)を産んだ高子(たかいこ)の推挽との見方もある。
このままいけば、やがて参議に昇進する可能性も高かったのであろうが、翌元慶四年、五十六歳で死去してしまった。
というのが、史実のみで語った業平の生涯である。意外に思われるかも知れないが、業平はまったく不遇であったわけではない。業平を完全なアウトサイダーの「恋の王者」と考えるのは、『伊勢物語』に拡大構築されて語られた「昔男」をすべて業平と考えてしまっているせいである。
『伊勢物語』のなかで確実な史実と認められるのは、紀名虎(なとら)の子有常(ありつね)の女を妻としたこと、文徳天皇の第一皇子で名虎の女静子(しずこ)所生の惟喬(これたか)親王に親近したことなどに過ぎないのであって、藤原高子との恋を藤原氏に引き裂かれたとか、東国に下向して武蔵国まで至ったとか、惟喬親王の同母妹である恬子(てんし)内親王と推察される伊勢斎宮と一夜を過ごしたなどは、すべて伝説的な創作である(倉本一宏『旅の誕生』)。そもそも、『伊勢物語』の歌のなかで確実に業平の作と認められるものは少ないのである。
業平の実像として史実と認められるのは、この卒伝の「体貌は閑麗であった。放縦であり、拘わらなかった。ほとんど才学は無かったが、善く倭歌を作った」というものと、『古今和歌集』仮名序の「在原業平は、その心が余って言葉が足らず、萎んだ花の、色がなくて匂いが残っているようなものである」というものである。
なお、業平の歌は『古今和歌集』に、撰者を除くと最高の三〇首が採られており、漢詩に圧倒されていた和歌の伝統を支え、歌道復興の気運をつくった功労者であることは確かであろう。「小倉百人一首」にも採られた代表作「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くゝるとは」が落語「千早振る」の素材となったり、カルタ取りを描いた漫画やアニメ・映画の題名が「ちはやふる」だったりするのも、業平の遺徳であろう。
紀有常女から生まれた棟梁・滋春、棟梁の子・元方も、みな歌人として知られる。
業平に関わる伝説地は全国各地に伝わっている。京都市中京区の業平邸跡(かつてよく泊まったホテルギンモンド京都や御所八幡宮がある)や、奈良市法蓮町の不退寺が業平の開基になるものというのは、まだ多少の信憑性があるが、各地の「業平生誕の地」や、『伊勢物語』に登場する場所の故地となると、もう笑うしかない。ただし、三河の八橋や駿河の宇津の山、武蔵の隅田川など、後世の文学作品に数多く登場することから考えると、『伊勢物語』と業平の影響力は絶大なものだったのであろう。