下野、連立政権、再び下野

 ただ国民が高い期待を寄せた細川政権は、わずか8カ月で瓦解し、後継の羽田孜内閣は64日で幕を閉じた。ガラス細工の非自民連立政権はあっけなく散った。

 94年6月、自民、社会、さきがけの自社さ政権が発足する。死にものぐるいで政権復帰を目指した自民党の執念だった。小沢はこの時点において、政治家人生で初めて野党を経験することになる。

 今でこそ、小沢は野党党首のイメージが強いが、衆院議員50年のキャリア全体でみると、与党生活は29年間で、野党生活よりも長いのである。

◆小沢の与党生活は29年間◆
自民党=23年半
新生党=1年
自由党=1年3カ月
民主党=3年3カ月

 小沢は94年12月に新進党を結成し、96年10月の衆院選に党首として臨むが、ライバル・橋本龍太郎率いる自民党に敗北する。97年12月、新進党が解党し、98年1月に自由党を結成すると、今度は一転して政権入りに舵を切る。

 99年1月、自自連立政権が発足し、小沢は比例代表の定数削減、政府委員制度の廃止、党首討論の導入など次々に政策を実現していく。しかしながら、99年10月、自自公連立政権が発足すると、自由党の存在感が一気に薄れてしまう。

 2000年4月、小沢率いる自由党は連立政権を離脱し、下野する。このころには、「壊し屋」の異名が小沢の形容詞として定着した。

 非自民連立政権樹立という「革命」を成し遂げた小沢だったが、その後、なかなか政局で勝てない日々が続いた。自由党の連立政権離脱後は「小沢の時代は終わった」との見方が広がり、メディアも以前のように「小沢中心史観」報道を避けるようになる。少数野党の党首として、小沢は苦しい時期にあった。

 だが、小沢の賞味期限はまだまだあった。「民由合併」よる政権奪取戦略を立てるのだった。

(続く)