首相就任の打診を拒否 総裁候補の3人の「面接」

 1991年10月、海部俊樹が竹下派の支持を得られず、衆院解散断念に追い込まれた。総裁選が宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の3候補で争われ、11月に宮沢内閣が発足する。この間、最も注目を浴びたのは海部でも3候補でもなく、小沢だった。

 まず、小沢は海部の後継として、金丸から総裁選への出馬を打診された。もし、小沢が受諾していれば、最大派閥のバックアップで首相になれていた可能性が極めて高い。だが、小沢は体調面の不安に加え、自らの若さなどを理由に総裁選出馬を拒否した。当時の判断について、小沢は『90年代の証言』でこう語っている。

「僕は何の準備もできていなかったから、断った。宮沢さんにしろ、渡辺さんにしろ、いろんな苦労を重ね、兵を養ってこられた。それを、僕が飛び越えて総裁選に出るというのはどうかと考えたのも、断った大きな理由だ」「朝から晩まで(金丸さんから)説得された。僕が断ると、『お前は何だ』と言って、怒られた。『1日でも総理大臣になりたいというのが政治家じゃないか。それを何でお前は俺が言うのに断るのか』と言って」「突然、出ろと言われても無理だ、というのが本当の気持ちだった」

 自身の出馬がなくなると、小沢は竹下派の代表者として、3候補の政策を聞くことになった。竹下派が推す候補者が首相になる時代だった。小沢は当初、3候補のところに出向こうとしたが、3候補の側が小沢の事務所を訪れることを希望した。これが「若い小沢がベテランの総裁3候補を面談した、けしからん」という構図で報道され、後に「総裁候補面談事件」といわれた出来事となる。

 小沢は「3人とも人生の先輩なんだから、僕がこっちに来いなんて言いっこないじゃないですか」「渡辺さんが僕のことを弁解してくれたんです。僕がお話を聞きに伺うと言ってたんだが、渡辺さんの方が、選ばれる方だから自分が行くと言った」(前掲書)と説明している。